記事のアーカイブ
2021年06月25日 17:11
自分の在りか、自分はどこにいる、自分の一部はスマートフォンの中に居る、というよりスマホは単なるインターフェースでしかない訳だから、サーバーの中であったりクラウド上であったり、仮想空間に自分の一部は確かにいる、ただし単なるデータとしてということに科学的にはなってしまうのだろうけれど。自分が社会生活を送る中で、その都度感じた事の一部を言語化してスマホを通じて仮想空間に献上する。それは自分の一部という事でいいのか、しかしそこに意思はないのだから、もしかしたら自分の痕跡というだけの事なのかもしれないですね。まあそう、自分の一部が自分の意思の管轄外で物理的ではない仮想の場所に存在し続けるという気味の悪さ
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2021年06月22日 11:31
アルコールは、なんですか、19時までは提供可能で、しかし2名までで90分以内という事なのでしょうか聞いた話によると。無理なく90分で退出してもらうには、90分飲み放題食べ放題とか、でもそうなると一気に飲み過ぎて悪酔いして、レジの横で盛大にリバース、みたいな事になったら飛沫どころの騒ぎじゃなくなってしまうのだろうし、なかなか難しいところです。
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2021年06月18日 11:42
自分に意味を見出すというのは、かなりの焦燥感の中で痙攣し続けなくてはならないという苦痛を伴う行為であるようにも思えてしまいます。いちいち周りの反応も気にしなくていけない。意味などというものは自分と関わる人達から自然と与えられるものなのかもしれません、だから自分の中から意味が芽生えるのではなく、外からもたらされて自分を捉えるもの、それが自分の意味。周囲との関係性の中でしか自らを保てない僕ら、自分に意味を見出そうと躍起になってしまう僕ら、意味を携え、決してはじき出されまいと焦燥感と共に頑張る僕ら、自分が生きているという大前提にたてばやはり、そうするしかないのでしょうけれど、実はこれはもしかしたら、
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2021年06月17日 10:17
新たな環境に身を置く、そこで求められる事に応えようと頑張る、その効果として潜在性が刺激され新しい自分が発見される。新たな環境で頑張るのは、自分がそこで役に立つ人間になりたいから、なぜ役に立つ人間になりたいかというと、承認を得て安心したいという想いも勿論あるし、感謝されたいという想いも口にはしないまでも当然ある、そしてその場所を自分の居場所、心地のよい場所にしたいという当たり前の衝動。必要とされ感謝され承認された時点で、その場所は自分にとって居心地のよい場所になる、という事は身を置いた当初や応えようと頑張っている時点では、そこはまだ自分にとって居心地のよい場所ではない、居心地の悪さを焦燥と共に噛
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2021年06月16日 18:21
他者、それも圧倒的他者、定義の一つとしては理解不能なものという事になるのでしょうが、その決して相容れないものを拒絶すればいいのか、存在しないと見なしてしまえばいいのか、それとも攻撃して消失させてしまえばいいのか。理解不能であるとみなしてしまう時、そこにその他者と同じような感覚、それは自分の価値観に固執する感覚、自分も他者もお互いのコンテクストで自らを強固に覆ってしまう態度、相手から見ればこの自分も理解不能な他者であると。分からないものを分かろうと努力する、その結果として豊かさがもたらされる。
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2021年06月15日 11:27
実は大した事がない自分、見破られたり見透かされたりしないか、という事がどれほど大事なのでしょうか、何か言われそうな空気を敏感に察知して虚勢を張り牽制し続ける態度。俗に言う「ちっぽけなプライドなんかかなぐり捨てて」という常套句、その先にしか本当のプライドはないのだと思います。ちっぽけなプライドに固執したままで、何が成せるでしょうか。殆どの場合誰だって実は、大した事はないのですから。
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2021年06月14日 09:54
何らかの理論とか概念とか、ある程度以上に抽象的な容れ物、そういうものをまずは知識として学ぶ。ただ、どんな知識でもそれを自分のものにするには、現実的な経験が不可欠なのでしょう。自分の経験を理論という斬新な容れ物に落とし込んで初めて自分のものになるし、それを人に教えられる、そしてそこで初めて腑に落ちるのですね。ただし、自分の経験した事の一部始終が一つの理論に落とし込めるかというと、決してそんな都合のいい話はない訳で、だから二つ三つの理論を織り交ぜて使ったっていいし、それでも足りない時は自分なりに捏造したっていい、そして堂々としていればいい。もっと言えば沢山の抽象が腑に落ちた時点では、自分なりの新た
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2021年06月11日 19:17
ホトトギスの謳歌を拒むようにヒステリックに叫び続けるウグイスを横目にマイペースでうなるニイニイゼミ、紫陽花を干上がらせる真夏のような太陽、太陽が過ぎ去った後の火照ったアスファルトを急速に冷やす冷たい風。今は何月なのか、まだ梅雨入りもなされていない6月の前半なのですけれどね。季節の要素の全てが混在し、そしてそれはただそっと在るという訳ではなく、それぞれが他を塗りつぶすかのように強烈に主張し続けている梅雨入り前の季節。
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2021年06月06日 15:19
自分の生きてきた今までをふと振り返って、確かにそこには様々なイベントがあった訳だけれど、その中のどれに懐かしさを感じるかというと、少年期や青年期ではないのです、その辺りというのは無理やり引っ張り出してくるイメージ。懐かしいそして楽しい、やはり社会に出てから、というのは自分が取り敢えず一人前の顔をし始めたのちの、遊び、恋愛、結婚、浮・・・・・じゃなくて引っ越しとか、あとは旅行や夢中になった趣味、こういうものには対して懐かしさを感じない、やはりというか何故かというか、懐かしさイコール仕事、それも起業のいくつかに非常に懐かしさを感じてしまう、そして今これらは勿論事後的な感覚として、本当に楽しかったと
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2021年06月05日 09:41
常にメタの視点を保たない事には的確な判断というのは下せない、だから夢中で在ることは歓迎されるけれど、それを通り越して無我夢中というのは、ちょっと、危険と隣り合わせであるように思えます、我を忘れてしまったらなんの判断も下せませんしね。誰もが時間の流れの中を、もしくは流れを横目に川べりをとぼとぼ歩きながら、生きている。流れに没入することは生を実感する最も容易い方法なのだけれど、没入する事と溺れる事というのは大差ない、だからせめて、流れの中で顔だけでも出しているのがいいと思います。
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