記事のアーカイブ
2015年01月05日 09:40
駐車場で、長年乗った車を前に、買取業者さんと話していて。話がまとまって、車を買いとってもらい。去ってゆく業者さんと車を見送って、振り向くと。そこには、本当はもう車はないはずなのに、なぜか中古の白い軽自動車が停まっていて。僕は、何の疑問も抱かずに、その軽自動車に乗り込み、気分よく出かける。これが、僕の昨年の初夢です。そして、現在、実際に長年乗った車に少し不具合が出て、修理するのも面倒だったので買取業者さんに売って、知り合いに中古の白いホンダライフを見繕ってもらい、乗っています。これ、白い中古の軽と指定した訳ではなく「何でもいいから、ある程度乗れそうなの一台探して」と頼んだ結果なんです。初夢を思い
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2015年01月05日 09:36
仕事はじめ。朝、出勤して、一通り挨拶をかわし。徐々に仕事モードに切り替えようとしても、頭も体も、なかなか言う事を聞いてくれなくて。僕はそんな時、敢えて難題に頭から突っ込んで行き。そして、多くの場合、しくじって。そしてようやく目を覚まして、仕事モードに自然と切り替わる。こんなような事を、毎年繰り返していたように記憶しています。でも、失敗するんだから、上司には当然怒られるんですけど。シャキッとする為にわざと怒られるような事をするんですから。そして、怒られるだけで済むんですから、今考えれば、おおらかな時代だったんでしょう。今の社会では、絶対に通用しませんよね。仕事はじめの日って、なんか憂鬱でした。休
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2015年01月04日 09:48
他人は変えられない、変えられるのは自分だけ。よく聞くような言葉ですが。そうなんですかね?どうなんでしょうか?ちょっと違和感を感じてしまいます。いつの間に、こんなに浸透している言葉に、なったんでしょう。これを聞くたびに、なんというか、あきらめの言葉のように聞こえて、妙にイライラしてしまいます。誰が、あきらめさせようとしているんでしょうか?あきらめさせようと、企んでいる人が、この言葉を広めたんでしょうか。あきらめさせて、その、あきらめた人を、操作しようとしている人が、いるのでしょうか。時代が、求めていた言葉、と言ってしまえば、もうそれまでなんですが。この言葉の前提として、人が自分であると意識できる
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2015年01月04日 09:36
昔、女性用の香水に凝っていた事があって。きっかけは「これ使わないから、あげる」って、もらったのが、たまたま女性用だったからなんですけど。その、もらった香水の匂いを嗅いだ時に「う~ん、もうちょっとこういう感じのやつがいいな」と思って。あ~でもない、こ~でもないと、気が付くと10種類位買い漁ったでしょうか。もちろん自分で使おうとして、という事なんですが。買った香水を、実際につけてみて。いい匂いなんだけど、当然おっさんである自分に似合う訳もなく。どの香水も、1~2回使っただけで、その後は半分くらい、人にあげてしまいましたが。残りは、密封して、まだ冷蔵庫の奥の方に眠っています。もともと、人にプレゼント
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2015年01月03日 09:23
昔、今の仕事を始める以前の事なんですけど。今はもう付き合いがないんですけど。というか、付き合いようがないんですけど。なんか、すごくユニークな方で。良くしゃべるんです、こっちは相槌打つ事しかできないくらい。そして、しゃべっている言葉の間によく入るフレーズがあったんですけど。「ねえ、何でも言って」「ほんと、困った時はお互い様だから」「どんどん頼ってくれていいから」いつ会ってもこれを言ってくるんですね。あんまり言うもんだから、試しに、ちょっと困っているふりをして、すぐには解決できないような相談を、会ってしゃべると、こちらが切り出すタイミングがないと思い、あえて電話をかけて、一気にまくし立ててみたとこ
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2015年01月02日 09:09
ちょっと、削除部分が多くなってしまって、変な文章なんですが。なんというか、精神的内界に対する洞察が深まれば、深まるほどに。想いは一つではなくて、富士山のすそ野のように、いくらでも、末広がりに、広がっていくといったように感じる事があります。自分の置かれている環境に適応するためには。自分がどうしたいのか、周囲からの要望は何かと考えて、いくつかの想いの中から、最善と思われるものを選択する。という事が普通なんでしょうけど。これって、環境に適応する為の、理性による選択という事になるんでしょうか。通常、理性により選択をし、その事に対して納得できて、疑問を抱かないというのは、自分の視界に入っている、氷山の一
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2015年01月02日 08:59
かき揚げ食べ過ぎて、あまりにも油摂り過ぎて、ちょっと気持ち悪くなって。そうしたら、ふと昔の出来事を思い出しました。今の仕事を始める前の、別の仕事をしていた時の事なんですが。当時、パン作りに凝っていて、その時、同時期に、サツマイモとリンゴが異常に好きになって。パンは、酵母を育てるところからやっていたんですけど。その頃の僕の食生活は、3食とも、手作りパンとサツマイモとリンゴ。約半年以上、外食の時以外は、ほとんどこの3種類の食品以外口にしませんでした。好きで食べていたんで、苦痛でもなんでもなく、それどころか「今日のパンはイマイチ」「このサツマイモ蜜多すぎ」みたいな感じで、結構楽しんでいたんだと思いま
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2015年01月01日 12:02
「やめな、あんたっ、みっともない」これは、祖母の口癖だったんですけど。思い出すたびに、そんなにみっともない事ばかりやってたんだろうか?と、少し不安になりますが。この価値観って、要するに、自分の行動を決定する上で、人からどう見られるか、という事に焦点を当てているわけで。人様から後ろ指さされないように、生きていかなくてはいけない、という事なんでしょうか。しかし「人様」って言う言葉って、なんかすごいですね。まあ、世間という事なんでしょうけど。こういった考え方って、今でも、それなりに、機能しているんでしょうね。この考え方の一部は、世間という広い社会を縮小させた、仲間内での空気を読むなんていう事として、
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2015年01月01日 09:40
2015年だそうです。コンピュータの2000年問題云々・・・、と言っていたのは、つい最近じゃなかったでしょうか。紀元前を含めなくても、もう2000年以上経っているんですね。この事に考えが及ぶと、僕はなんとなく憂鬱になってしまいます。日本人の平均寿命が80年として。仮に平均寿命まで生きながらえたとして、1920年に生まれた人なら2000年までの人生を生きると。そして、その人が亡くなった後も、西暦は2001年2002年・・・・・2015年、と続いてゆくという事で。その、2000年になくなった人の意識は2015年の今、どうなっているのでしょうか? 亡くなるという事は、意識もなくなるのか
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2015年01月01日 09:37
昔、人並みに初詣に行っていた頃。いまはもう、行ってませんが。神社に行くとしたら、人が誰もいない時を見計らって、リラックスする為に行くくらいでしょうか。昔は、寒川神社によくいっていたんですけど、まあとにかくすごい人の多さで。駐車場に車を停めるのだけでも、結構時間がかかって。そしてやっとのこと、車を停めて、今度は参拝の行列に並ぶと。そして、寒い中、数十分我慢して、やっと自分の番がきて。え~と、あれってどうなんですかね。僕は昔からすごく抵抗があるんですけど。お賽銭を投げいれる、という行為。これに、本当に非常に抵抗があって。お賽銭を、入れる時には、あまり音を立てないように、そ~っと賽銭箱のふちを滑らす
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