記事のアーカイブ
2014年12月03日 19:30
「今日何食べたい?」「ん~、何でもいい」とか「ねえ、あしたどこいく?」「ん~、どこでもいい」気を付けてないと、僕もつい言ってしまう事があるのですが、これ女性側からしてみると、結構ムッとするようです。男性側からすると「ほんとに何でもいいと思ってるから」とか「作ってくれるものはどれもおいしいから」みたいな思いがあっての返答の場合が多いと思いますが。作る側や、意見を求める側にしてみると「何が食べたいのか、どこに行きたいのか」という事を、一緒に考えたり、きちんと言葉にしてもらう事によって、そこでコミニュケーションが生まれる訳で「何でもいい、どこでもいい」という返事は、関心を示していないと言うような、関
—————
2014年12月03日 19:23
以前に自動記述プレイについて書きましたが、ひとつ思い出した事がありまして。自動記述ごっこが30枚くらいになった時に、一回総括したという事を書いたと思うんですけど、実はその後で、絵を書くことにも挑戦してみようと思い、A4の紙と色鉛筆を持ってきて、ぼーっとしながら、何となく頭に浮かんだことを書いたみたいなんですけど・・・、10分位して書きあがった絵は---痩せたおじいさんがダブダブのタンクトップと短パン姿で花畑に立ってヘラヘラ笑っていて、頭のまわりをチョウが2匹飛んでいて、手にはファンタのペットボトルを持っている---と言う絵で、自分でも訳が分からなかった上に、その絵を見た家族にも結構ばかにされた
—————
2014年12月03日 19:22
なんか、いつも同じようなタイプの人に引き寄せられてしまうというか、結構そういう事があるんですけど・・・。30歳位の頃、車(中古車)を買おうとしたときに、足代わりでちゃんと動けば何でもよかったんで、手ごろな値段の一台に目をつけ、中古車屋さんの社長と話している時に、僕「足代わりなんで、壊れなきゃ何でもいいかなと思って」と言ったところ、社長「何言ってんスか、車は機械ですよ、壊れない機械なんてあるわけないでしょ、でも万全の状態にちゃんと整備はしてお渡ししますけどね」と、ひょうひょうとした様子。なんか衝撃的な一言に感じて、いやいやごもっともという事で、すごく信用できそうな気がして、その日に買うつもりじゃ
—————
2014年12月03日 19:21
自分がいまどこにいるのか、という事を確認する時に、人それぞれ色々な基準や確認の仕方があると思うんですけど、大きく分けると、人と比べて自分がどの位置にいるのか確認して安心・納得する、または悔しさをバネに頑張るという方法と、自分の描いている理想と比べて、まだここまでしか来ていないと歯を食いしばりながら頑張るというような方法。どっちもアリですよね、大人になって経済的人間となり、社会生活を営んでいる以上は、同じように社会生活を営んでいる自分以外の人との間に、ある程度の競争が生まれるのは当然ですし。だから、自分がいまどこにいるのか確認するためには、他の人と比べるというのは自然な事で、すごく分かりやすいこ
—————
2014年11月15日 20:56
先日スーパーに買い物に行って、商品を選んでいる時に、突然ももに激しい衝撃が・・・、ビックリして周りを見ると、5~6歳くらいの男の子がばつの悪そうな顔をしてこっちを見上げていて、その子のお父さんが慌てて飛んできて「こらっ〇〇何やってんだ、謝りなさい」そしてお父さんは平身低頭で「すいません」を連発。そのお父さんもひょろっとしていて、何となく僕と同じような体型をしていて、その親子のやり取りを聞いていると、どうやらその子の中で、お父さんのももに全力でパンチをかますのが、最近のマイブームのようで。その子はお父さんにパンチしたつもりで、間違って知らないおじさんにパンチしてしまったと。 事情を察し
—————
2014年11月15日 13:23
どういう時に「幸せ」を感じるか、という事について、自分自身の経験から、まだうまく実感できない部分があるんですけど。日常生活が滞りなく営まわれている時ですら、頭の片隅で何かに注意を払っている自分がいるようで。・・・でも何かの問題が片付いて、一息ついてぼーっとしている時は、一瞬だけ、何となく「幸せ」という感情に近い様なものは経験する事があります。心的緊張度が低く抑えられていて、問題事項に目が向いていない時に、一瞬だけ「幸せ」という感情が芽生えるという事でしょうか。一瞬の幸せを感じる状況を思い起こしてみると、---洗濯物がフワフワに乾いた時・家を出た瞬間に日差しが柔らかくて外気が気持ちいい時・特に問
—————
2014年11月14日 18:24
「充実感」と「楽しい」は別の物のように思うんです、あくまで僕の場合はという事なんですけど、楽しかった時の事を思い出してみても、そこに充実感が伴っていたかというと、必ずしもそういう訳ではなくて、ただ楽しい体験をしたという思い出があるだけで・・・、「楽しいんだったらそれでいいじゃないか」といってしまえば、「はい、ごもっとも」という事なんですけど。反対に充実感を伴っていた体験を想起すると、それは必ずしも楽しかった体験という事には当てはまらず、なんというか---ある目的があって、そこに向かってわき目も振らずに一生懸命になっている時であり、その結果として目的が達成された場合---この場合に目標達成までの
—————
2014年11月12日 09:30
クラシック音楽は昔から好きでよく聞いていたんですけどラベルやフォーレといったところが割と好きなんですが、その好きと言う感情と別のところにシューマンがあります。なんていうか聞いた瞬間に囚われてしまうというか、聞かなければ聞かないで何の不都合もないんですけど、聞いた瞬間にそこに引き寄せられてしまう、といったような、自分でもうまく説明できない感覚なんですけど。特にトロイメライを含む、子供の情景を聞いていると、スッキリするとか、懐かしいとか、リフレッシュできるとか、そんな様な事では一切なく、ただ自分の中の何かが勝手に何かを想起して納得している、というか・・・。何か何かじゃわからないと思うんですけど、自
—————
2014年11月11日 09:45
僕にとっての、自然体と言う言葉からのイメ-ジは、何となくですけど「白いシャツを着て、降り注ぐ柔らかな日差しの元、微笑みを浮かべながら、手を後ろに組んでゆっくり歩いている」という、ちょっと、聞かされた方は思わず引いちゃいそうな、幻想と実際の社会との間にあるもののような感じでしょうか。自然体・ありのままの自分・本当の自分・素の自分、といろいろ言い方はありますけど、それって本当に自分を100%受け入れてくれる人というか、無条件で承認してくれる人というか、そういう完全に安心していいと保障されている人の前でしか出せないように思うんですけど。自然体という事は自分にとっての快・不快はハッキリしていて、やりた
—————
2014年11月10日 18:31
昨日話をしていてふと思ったことがあります、ヒトは自然の一部なのか?と。誰もいない海で周りに人造物が一切なく高い波がたっている・山中で人造物が一切なく、木々のこすれる音とカラスの鳴き声が聞こえる。このシチュエーションは僕だったら結構不安になると思います。では、誰もいない、木立に囲まれた神社の中で、トイレや社務所があって静寂に包まれている、はどうでしょうか?こっちはなんか喧騒から離れてほっとできる場所のような気がします。ちょっと例えが極端ですが、まるっきり人造物がない中に放り出されると、なんか不安になるんじゃないかと、反対に少し人造物が目に入れば、そこに誰もいなくても自然を堪能できるという事でしょ
—————