神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2021年05月24日 09:33

父は存在しない

母なる○○、この○○には様々なものが入る、海、森、大地、大自然、大宇宙、自然それも優しい自然のイメージ、生命を生み出す場所というか生み出すシステムそのものをさしているかのような印象もあります、生み出して抱きしめて優しく育んで温もりたっぷりで。自然そのものをさしているのか、自然は優しいだけではなく災害ももたらしますね、でもなにかこの災害の部分には目を瞑ってしまっているような気もします、自然災害を母の怒りには結びつけようとしない僕ら、地震雷火事親父というように、自然の災害、暴れまわる手のつけようのない自然は親父、どちらかというと父のイメージですね。切断、破壊、断罪、絶対的に立ちふさがるもの、父性の

—————

2021年05月23日 19:15

危うさ

リモートワーク云々とかいう片仮名もまあいいのだろうけれど、精神衛生的にはどうなのでしょうかオンとオフの区別は。自分が社長、自分の会社なのであれば、自分で起業したのであれば、起業自体、自分が創った会社を存続させる事がアイデンティティにもなるから、のべつ幕なし、四六時中会社の事、仕事の事を考えていて当たり前、仕事にドップリと浸かりきって夢中を泳ぎ続ける事が当たり前であり、そこにオンとかオフとか言う生ぬるい概念は必要ない。ああじゃあ、リモートワークでオンとオフの区別がなくなるという事は、少し起業者の感覚に接近したりするのでしょうか、常に仕事が頭から離れない、やろうと思えばいくらでも仕事をやり続ける事

—————

2021年05月22日 09:55

上っ面

当たり障りのない常識的な、上っ面の人間関係に終始するのが一番楽なのだけれど、時間と共に関係が深まる場合もあるそれはやむをえず深まってしまう場合や自然と深まる場合、あとは積極的に深める場合も含めて。そうなってくると化けの皮が剥がれ始める、穏やかで常識的な態度のあちらこちらから綻びが・・・・・・・特に依存性の人格の場合はそれが顕著これはただべったりと庇護のもとに滑り込む事だけではなく、力関係の構築や主導権、あとは突き付ける要求とか自分の感情を処理する目的で相手を利用するとか、これは設定したかわいそうな自分というキャラに対する共感を求める場合と八つ当たりの場合が、大きく分けてですが。人間関係が深まる

—————

2021年05月21日 18:37

感情によるのか理性によるのか

言い合いとか喧嘩とかキレるとか、なにかそんなような状況になった時できれば「死ねっ」とは言わない方がいいのでしょうけれど、ただこれは、そうですね、言い合いや喧嘩、感情的なりやすい人がキレた時に発する「死ねっ」は隠喩である場合が殆ど。それに対し理性的な人、理性により発せられた「死ねっ」というかちょっと、感情に任せた場合とは言い方も変わってきますね「・・・・・・・・死ねよ」という静寂でしょうか。同じ「死ね」を貼り付けられたにしても、感情優勢で衝動的に、時に人によっては口癖のように発せられた「死ねっ」の場合はそのあと時間が経てば、そして和解というよりは感情が収まりさえすれば、また元の関係に戻って笑い合

—————

2021年05月20日 14:21

自分しか愛せない

言葉と態度が大きく乖離するという、多少は二重拘束にも通じる在り方。言葉と態度、口に出して言う事と行動、これが一致して初めて、その人は信頼に値すると認識される。言っている事と行動が伴わない時、そのどちらが本当のその人なのか勿論、実際にしている行動がその人と判断される・・・・・・・・そして、関わるに値しない人と判断され侮蔑を向けられるしかない。まあ、そう、それでも関わらざるをえない場合は、この人は自分しか愛せない人なのだから仕方がない、と割り切るしかないですね。

—————

2021年05月19日 19:39

外側に存在する

夢中になっている時というのは、その夢中な事以外の多くの事が煩わしく感じたり、どうでもいいように思えたり、重要ではないように思えたり・・・・夢中であるという事はその事だけに意識がいっている訳ですから、それ以外の事をないがしろにしてしまうというのも無理もない話。食べる事、寝る事、休息する事、着替えや入浴、時には気配りや気遣いも。イメージ的には、研究とか、クリエイティブな領域とかで起こりやすい現象でしょうか。しかし、この流れというのは、なにも楽しい事や自分のやりたいことに夢中になっている時だけ起こる訳ではない。なにかとても嫌なことがあった時とか、なんらかの陰性の想いに囚われざるをえない時とか、その一

—————

2021年05月17日 19:00

単一の意味

言葉というのは隠喩的なものでしかないから、表現方法は沢山あるし、受け取り方も人それぞれ、だからこそなのか、後からその時の言葉のやり取りを思い返して「・・・・・・もしかしたらこういう意味だったのかも」とか「自分の言い方は正しかっただろうか」とか「ちゃんと誤解なく伝わっただろうか」とか、さまざまに思い返して不安に苛まれる事もある。であるのなら、言葉をどんどん記号化していってしまえば、記号は単一の意味しか持たない訳だし、受け取り方は一つ、共通の認識、誤解は生まない。単純な記号だけのコミュニケーションに限定してしまえば、思考すらも単純化する事が、というか単純な記号のやり取りに慣れてくれば、複雑な思考と

—————

2021年05月16日 16:40

生身のお互い

初対面、ただ自然に、自分そのものとして受け入れられる、いやこれ受け入れるとかどうとか、そういう事じゃない、見知らぬ子供同士が砂場で思い思いに遊んでいる時、自然といつの間にか言葉を交わし、身体や遊戯や言語を媒介として交流しだす、こういった感じの自然さ。子供なのですから自然も何もないのかな、ただ、自然にそうしようとか言う感覚すら存在しない中で、交流しだす。相手も生身、自分も生身、何の装飾もほどこしていないお互い、なんの詮索も必要ないお互い、ただ当たり前のようにそのままで接し合うお互い。これは子供だからこそ可能なのか、大人になってからももし、これが可能なのだとしたら、それを担保するものや裏打ちするも

—————

2021年05月15日 13:53

目が覚める

何も追い求めないで生きる事は楽なのかもしれない、理想とか、目標とか、自分の生きる意味、自分に意味付けする事を永遠に保留にしたまま生きる、それは自分が終わるまで、そうやって漂い続けながら生きるのは、楽なのかもしれない、けど、時には焦燥にかられたり、自分の奥底から湧き上がってきてしまう何らかの面倒な衝動を、否認するという工夫を常に怠らずに。ただ通常は否認の効果として何らかの症状がもたらされる訳で、それは多くの場合ヒステリー的な。そのヒステリーを抑え込み続ける事は出来るのかと考えると、それは非常に無理がある。何も追い求めないで生きている自分、という演出は可能、ただその場合は他者に認識されなくてはいけ

—————

2021年05月14日 17:45

伸びしろのなさ

伸びしろのなさ、能力のなさ、能力の限界、その結果としての今の状況であり今の自分の環境、などという事は本当は決してないのだけれど。自分を卑下する為や自分を嫌う為に、そのように考える必要はない、あと、動かない理由付けの為にも。諦めと共にでもなんでもいいから、取り敢えずはその状況や環境を、自分のものだと認める。認めれば、自然とその環境で満足を得ようとする、これ以上よくはなりようがないのだ、これが自分の環境なのだと、ここにいるしかないと、諦めと共に受け入れれば、環境や状況は変わりようがないと思えば、そこで満足を得ようとするしより快適に生きようとする、環境の中で自分なりに工夫し満足を得ようとする、環境を

—————