記事のアーカイブ
2021年04月29日 14:57
素に戻るわけにはいかない他愛ない話で大盛り上がりしている仲間、そして自分もそこにいる、そんな時は自分だけ素に戻るわけにもいかない、やはりみんなに合わせて笑わなくてはいけない。ちゃんと笑えているみんなというのは、多分ほんとに楽しいから大笑いしているのかもしれなくて、素に戻ってはいけない、とかは一切考えていない。こういう状況というのは、そう、けっこう厳しいのだけれど、とりあえずは空気を乱す訳にもいかないですし。こういう時というのは、その場を離れた後、気がつくと顔の筋肉がとてもこわばっている事ってありますよね。面白くない時には笑わない、そしてみんなが笑った後に、真顔でシニカルな事をポロッと言うキャラ
—————
2021年04月26日 20:04
少し前まではウグイスの鳴き声で早朝に目を覚ましたりしましたが、ここ数日はホトトギス、ウグイスも勿論鳴いているのですが、その謳歌に思いっ切りかぶせるように涼し気に爽やかに目覚めに寄り添う、ホトトギスの鳴き声。ウグイス対ホトトギス、なんとなく僕はホトトギスの鳴き声の方に惹かれる、もしかしたらそれを裏打ちしているのは托卵の文脈が背後に見え隠れしているからなのかもしれませんが。ウグイスの鳴き声に対してホトトギスの鳴き声、完全に主観でしかありませんがウグイスは人の生活に寄り添う優しさや暖かみがあるように感じる、もしかしたらそこには忖度すらあるかのような、しかしホトトギスにはそれが一切ない、唯我独尊的な高
—————
2021年04月24日 13:25
よく晴れた早朝、雑木林に拓かれた小路で立ち止まり新緑を見上げると、そこに在るのはちりばめられた可能性、これは希望というよりはやはり、可能性なのだと思います、新緑が目にしみる。可能性、僕らは可能性を感じる時、そこに一抹の焦燥や不安がノイズとして混在している事に気が付く、可能性を目指して突き進むという事は、そこには勿論高揚感や集中が鎮座しているけれど、やはり可能性というのは約束された成功ではない訳ですから、どうしても成功する確率○○%と言ったような、確率論が壁として立ちふさがっていて、それを実感した時に不安や焦燥をいだく。可能性に対して潜在性、能動的に対して受動的、強引に対して自然体。潜在性という
—————
2021年04月23日 13:10
・・・・・・・ああそう、植物系?ボタニカル系?植物的みずみずしさやしなやかさや純白さ、これこそが魅力、とか感じているのかもしれません。暑苦しさ、胸焼け、脂っこさ、動物性、こういうものの対極に位置する女性として、なのかなと思います。そうですね、多くのお客さんが気が付くのでしょう、さっそく言われましたし。「あれって、しんさんのお母さんの事ですよね、あの脂っこいほうのやつ」僕は実家の二階の一室を改装して、と言うほどの事はないのですが、使っていなかった一室にテーブルと椅子を設置してカウンセリングさせて頂いているので、終わってから一階に下りて玄関にゆく途中、リビングがチラッと見える、そのリビングではもう
—————
2021年04月22日 09:51
元々は男性の身体として生まれてきた女性が「あなたは彼と何をしている時が一番楽しいですか?」との質問に対して「向かい合って・・・・・・・一緒にご飯食べている時」と答えていた。あまりにも純粋な想いに触れてしまうと僕らは自然と涙が溢れてきてしまう、という事を実感させられる出来事、これはそう、何回思い出しても、思い出すたびにどうしても涙が止まらなくなってしまう。その女性にはなんらかの謙虚さや控えめな気持ちがあったのか、それとも多くの付帯要素を削ぎ落として最もシンプルに、突き詰めたらそういう事でしかないという哲学的思考に基づいて答えたのか、僕にはそれはわかりませんけれど。本当は、彼に包み込まれて全身が安
—————
2021年04月21日 16:45
人格障害とは言わないまでも、依存という癖(へき)を持ち合わせた人というののターゲットとなりやすいのはやはり、真面目で几帳面、責任感が強く人当たりの柔らかい人、というのが代表格。癖に大きな快を覚え続けた先で人格障害に格上げされるケースも勿論ありますね、脆弱な自我を他者に支えさせたり、通常成熟者は自分の感情は自分である程度処理する訳ですけれど、依存者は他者を使う事で自分の感情を処理する。人というのは孤立の中では自己が成立しないという矛盾した一面も持ち合わせているのですから、要は他者と関わり合う事で自己を成立させる存在、他者と関わり合う事で自分をし確認し続ける存在。お互い、個が、他者と関わり合い続け
—————
2021年04月13日 09:15
桜の残像を時間の向こう側へ押しやるかのような純白の浮遊、陽が陰り始めた幽玄の遊歩道に薄弱した精神を漂わせていると真っ白に咲いたハナミズキに思考の霧を一気に吹き払われるような感覚になります。郷愁に纏わり続ける無為な快を禁止され、現実の希望だけを強く見据えるように命令されているかのような、清々しさ。
—————
2021年04月12日 14:19
本当に大切にしているものに想いを伝える、これは本当に正しい行為なのか、正しい場合も、逆にそうではない場合もある。宣言した瞬間に関係性が変わってしまう場合もあるし、その宣言が新たな始まりになる場合もあるけれど、それは関係の終息と引き換えである場合も勿論ありますね。本当に大切なものに対して、今までと変わらない接し方を続ける、少しゆるく、細く長くそして緊急時には太く、延々と。欲求不満耐性の高さが必要になりますけれど、そう在る事によって成長する自分というも確実にありますから。
—————
2021年04月11日 17:21
うちの祖父はかなり書物が好きだったようで、もう亡くなって数十年が経つにもかかわらず整理されないままの蔵書があちらこちらに積まれていたりします。サのキ、子供の頃僕は祖父の部屋に忍び入って、住居内の他の部屋とは異なる匂いを嗅ぐのが、好きだったという事ではなく何故か癖になっていたのかもしれません。仁丹もしくはサロンパスの匂いを胸いっぱいに吸い込みながらボケっとした頭と開き気味の瞳孔でいつも脳裏それは今となっては心の裏側の方に焼き付けていた「サのキ」ではなくのちにしった砂の器、テレビドラマでも何度も放映されましたね僕は中井君の砂の器が一番しっくりきました。読書、知識を得る、心が豊かになる、言語能力が向
—————
2021年04月10日 11:14
僕ら人間がコロナに追いやられる状況がもう一年以上続いている、活動範囲が狭くなり身体接触も控えめになり、情緒的にも平坦になり、さまざまな我慢を強いられているここ一年。いささか言葉だけが独り歩きしている感は否めませんが、そしてそれを言う人は自分は知的であるという主張でしかない場合も、誰が言うかによっては、ない事はないように思えてしまいますが、、適切に怖がるというのは当たり前の事なのでしょう、それがないと警戒心は芽生えないのですから。蔓延しているから、それを避けるように静かに生きる・・・・・・・・そう、ひっそりと静かに生きた一年、イメージ的には常に市中で監視を怠らないでいるコロナに見つからないように
—————