記事のアーカイブ
2021年04月09日 12:49
「家族の支えがあったから頑張れた」という物言いには一抹の違和感を抱きます。百歩譲って「家族の為に頑張った」という事なら分からないでもない場合もある、ただそれは自分の為に頑張ったという事でしかない、家族というのが自分の一部である場合には、そしてそう言う事を言う人は家族の絆が強固だからこそ。自分を支えているものは何か勿論自分でしかない、自分を支えているのは自分でしかない。自分はどうやって自分を支えるか、それは自信とプライドによって支える、自信というのは何によって湧き上がってくるのか、それは自分の過去の実績や今の社会的立場や、あと最も重要なのは他者からの承認、僕らは他者からの承認によって支えられてい
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2021年04月08日 08:44
ブランド品が月々定額でレンタルできるサービス、今は物は限定されているようですが、これからもっともっと色々な、自分を装飾するブランド物に拡がってゆくのでしょうか、カーシェアリングというのは以前からありました。ブランド物、高額な物、プライドを・・・・・・何故か補強する効果があるもの、車というのは愛車と表現されたりもします、そこには所有者の愛着が。愛着とは何か、きっとそれは小文字の他者、対象a、ベールのこちら側にくる前の自分がいた今となっては空白の場所であり空虚な場所、自分の本質としての空虚を愛着を感じる物で埋め合わせる。その時、空虚を埋め合わせる物というのは高額な物であるより本当は、廉価なものとい
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2021年04月07日 13:29
経験した事というのは自分の中に言語や想いや観念として蓄積される、その蓄積が自分を形作ってゆく。仮に、何かに失敗したとして、そうするとその経験というのは勿論、自分にとって都合の悪い経験として心的組織に蓄積刻印される訳ですけれど、その時に、その都合の悪い経験を、なかった事にするのか、それともよく科学で言うところの失敗は成功の母、みたいに考えて、そこから何かを学びとろうとするのか。この違いはとてもい大きいのでしょう、心的組織にとつたらネクローシスとアポトーシスくらいの違いがある。なかった事を繰り返すという事はネクローシスを繰り返すという事、その結果として自爆し続けた心的組織の一部分がいくつもある、と
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2021年04月06日 09:37
池江選手の復活には誰もが驚きと共に大きな感動を覚える、希望や勇気の象徴であり人によっては目標、本当に、心の底から尊敬してしまいます。尊敬、尊敬という事に想いが及ぶ時、自分の社会生活の中で勿論さまざまな多くの人に出会う訳ですけれど、なぜか尊敬を抱くのは女性であるという。なんでしょうかこれは、自分には到底できない事を、満身創痍の中で決して諦めずに、自らの足で立ち続ける、問題を自分で引き受け、正面から向き合って自分のやるべき事を全力でやり続ける。その姿を目の当たりにし「ああ、おれならとっくに折れてるな」と思い、大きな尊敬を抱く。精神が身体に対してどのようにポジティブな影響を与えるのか・・・・・・・と
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2021年04月05日 10:03
メタモルフォーゼという神秘を僕ら人間に当てはめた時、無器官体と欲望機械という対比として言い表してもいいように思います。無器官体の様相を呈する時というのは自分の時間が切断された時、それは何かを達成した時であり何かに大きく挫折した時であり、達成も挫折も目標の喪失という意味ではどちらも同じなのかもしれません。特に挫折の場合というのは一切の気力を奪われ、思考は停止し、それでも尚思考しようと試みても濃い霧に覆われて何一つ見渡せない。挫折、欲望機械の停止、停止した機械はそのまま放っておけば錆びついて溶解してしまう、まずは精神分析的に分解して、意味を見出し、ばらした機械は大切に保管して、安心して無器官体とし
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2021年04月04日 10:10
自分は今まで生きてきて、その中で様々な経験をして、そこからそれなりに学習して、ただこれは明確に整理をつける必要性は未だに感じていない中で漠然とアーカイブに保存した、そしていつでも取り出し可能な重要文書的な。たぶん明確に整理するのはもっと先、自分に何らかの満足を万が一感じてしまった時とか、整理しない事にはどうにも立ち行かなくなった時とか、もしくはあまり考えたくはないですけど諦めた時とか、ただ、今でもいつでも、脳内では常に囁かれ続けているし、ただそれを事実確認的な文字列に変換していないだけで、言葉にはなっている、だから全てわかった上で総括はしていない、というかまだ総括の必要性を感じていない。そんな
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2021年04月03日 13:04
スキー、サーフィン、車、時計、クラシックコンサート、絵画等芸術、読書・・・・・・・・趣味とか言われるものたち。趣味というのは、自分が夢中になれて楽しかったり、没頭できたり、その為に自分の時間を費やすのだけれど、そこに賃金は発生しない、自分の時間を会社の為に使えば、というのは出勤して仕事をすれば、これは自分の一日24時間という持ち時間を切り売りして、対価として賃金を得る。自分の趣味の為に一日24時間という自分の持ち時間のうちの幾分かを費やして、これはなんでしょうか、充実や楽しさ、充実や楽しさという対価を得る。なんかおかしな話になりましたが、趣味というのはコミュニケーションツールでもある、他者と交
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2021年04月02日 20:06
キャラと言ってしまっては少しニュアンスが違うと思うのです、キャラというのはメタの自分もしくは俯瞰的自分がある程度は冷静さを保つ中で器用に操作されるものであり、そこにはシニカルが居座っている。シニカルである事と全力で今を生きるという事はやはり相容れないものなのでしょうから、やはり自分の生を喜怒哀楽のもとで味わい続ける為には没入が必要、時間の流れの中にどっぷり浸かるという作法が必要。そこで持ち出されるのがインターフェースなのか、無意識という言語の混沌から自分が参入している様々な環境にいる人々と関係する為に、その本来の自分である無意識が自分の代表として提出してくる、インターフェース。ただ、そうなって
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2021年04月01日 10:51
いつも間にか既に満開になっていた八重桜、桜も沢山の種類があるようですが、やはり最ももてはやされるソメイヨシノ。数ある桜の中で一番主張が少ないように思えます、限りなく純白に近いピンク、曇り空の弱々しい日の光すら透過する薄い花びら、強風や雨に容易く枝から剥がれ落ちる脆弱性。儚さが美しさに直結する日本的な美意識、主張のなさは奥ゆかしさに行きつくのでしょう。ソメイヨシノの控えめな在り方を見上げる時、僕らの意識には様々な個人的想いが湧き上がってきます、それは鏡を前にした時と同じ構造として。ソメイヨシノの主張のなさは、ソメイヨシノの奥ゆかしさは、僕らの心を映し出す鏡として作用する。
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2021年03月31日 16:34
話すのか書くのか、これによって結論は全く違ってきてしまう。話すという常に現前で行われる行為の場合、それは生身の身体を晒しながら・・・・・・となるとどうしてもナルシシズムが介在してしまう、自意識とか自己顕示とか、その効果として話がとっ散らかる。自意識、意識、自我、自我の中核をなしているものそれは自己愛にほかならないのだから、まあそういう事でしかない、話す、コミュニケーションというのは時間の流れの中で行われる訳だし、自分が話すだけではなく相手も話す、だから時間的制約もある、いつまでも自分の方だけがたらたらと喋り続ける訳にはいかなくて、そう大切なのはテンポ、その、テンポの中で深い洞察が可能なのかとい
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