記事のアーカイブ
2022年11月07日 14:17
週に3~4回、日が沈む間際の夕方の5時の時もあるし、各家庭の台所から包丁をまな板に刻み付ける音が聞こえ始める6時の時もある、日が沈み街灯が灯った7時の時もある。住宅街の道路脇の月極駐車場、車道を隔てる低い石垣に小さく腰を下ろしたきちんとした身なりのお婆さん、いつも遠くの景色を静かに眺めている。パンやおにぎりを丁寧に食べている時もあるし、缶入りの飲料を優しく飲んでいる時もある、遠い目を山並みに向け小さくなっている時もある。数か月前に気が付いたのですが、週に3~4回、決まって車で通る住宅街の細い道、5時でも6時でも7時でも、そのお婆さんは必ずいつも同じ場所で、小さく腰を下ろしています。昔、僕がまだ
—————
2022年10月31日 16:11
11月3日だから、今週の木曜日ですか、ブレイキングダウン6は・・・・・1分間の喧嘩ファイト、試合前には勿論自分自身を鼓舞する為にも相手といい試合をする為にも、かなり口撃的であるというのも観るものを高揚させてくれる秀逸なコンテンツ。試合終了のゴングが鳴るまではまるで憎しみ合っているかのような様相ですが、終わった瞬間に破顔して抱き合う両者、これは本当に良い光景。格闘技に限らず社会背活の中のどんな事でも、自分のポジションを確認したり、自分がどこまでできるのか確認したりしようとする時に必要なのは、、比較対象。比較対象と議論したり、どちらがより良い結果を出すことが出来るか競ったり、その中でのみお互いが向
—————
2022年10月02日 19:55
毎日それなりには頑張りつつ何かを我慢しつつ、生きてきている中で、ふと我に返ってしまう瞬間、これは最も危険な落とし穴、というか裂け目、まるでリゾームの裂け目に足を取られて、自分の今いる場所を見渡すことが出来てしまう・・・・・かなり困った経験なのだと思います。自分はこれまで歩んできて、何を残してきたのか、存在を示すことは出来たのか、大きなインパクトを与える事は出来たのか、たぶん誰でもそれなりの実績は残しているのだと思いますが、その微小な爪痕に満足がゆくはずもなく。要は、ある程度で満足を得るには己の小ささを認めるのが一番である事は分かりきってはいるのですね。それを認めたくない往生際の悪さ、じゃあ自分
—————
2022年09月05日 10:43
食べると言う、最も利己的な行為...とは、よく言ったもので確かに、食というのはその人個人の欲望の矛先として大きなウエイトを占めている、ある種の安易さを纏って。その時に食べたいものんを食べて、ああ美味しい、とじんわり思って、その瞬間に幸せな気分に浸る、とても分かりやすい欲望の満たし方として、多くの人々に自明として指示され続けている。食べるという行為は瞬時に幸せを感じる事が出来るから、楽しい事なのかもしれない。もし今、自分が行っている行為が、食べること以上に楽しくて、とても幸せに浸れる行為だとしたら...食べる事は疎かになりますね、文字通り、寝食を忘れて、的に。出来る事なら、いつも、いつまでも、寝
—————
2022年09月01日 14:57
無人島にたった一人で流れ着いたら、そこで芽生えるのは生存の不安。。飲み水や食料の確保、安全に眠れる場所の確保、獣や毒虫から身を守る事。無人島を徘徊しているうちに、自分と同じようにたった一人で流れ着いた人数人に出会い、そこで小さな集団が形成されると自分一人ではない安心感が生まれる、初めのうちは生存が確保されたというか、生存の可能性が少し増したような感覚に陥り、不安が緩和され、ホッと一息つける瞬間、生存が保障されたように錯覚出来るありがたさ。その感覚が落ち段落すると今度は、実存の不安が芽生えますね当然の事ですけれど。集団に埋没して自分の安全だけを確保していればいい訳ではない、その態度は即座に「いて
—————
2022年08月16日 12:43
毎年お盆の時期、ジリジリとした暑さに耐えている、立ち尽くし、微動だにせず、流れ落ち続ける汗を拭う億劫さに苛立ちながら。道路脇の舗装の剥がれた僅かなスペースや植え込みの空いたスペース、赤く細い、数個の彼岸花の集合体が、あちらこちらで...何を告げているのか...僕はなんとなく、彼岸花が苦手なので、あまりましまじとは見ません、と言うより、目を伏せ足速に通り過ぎる感じに、どうしてもなってしまうのです。・・・・・・そしてそののちに、テッポウユリを目にしてホッとするという。
—————
2022年08月04日 10:39
社会活動の中で、人それぞれの個性は勿論大切だけれど、性格と言うのは特に取り沙汰される必要もないように思えたりもします。穏やか、短気、明るい、優しい、冷たい...特に仕事上で人と関わる時、短気とか冷たいとか、そういったネガティブを前面に出していては物事は円滑に進むはずもなく、必然的に穏やかさや明るさや優しさと言うポジティブの中で、当たり前のように関わり合う。その時、その人本来の性格と言うのが、表層の奥の第二層で、蠢き続けている場合もあるけれど、そういう人はストレス状態によっては容易くボロが出てしまう。円滑な社会活動を送る上で、蠢く第二層というのは非常によくない、最低でも、完全にキャラクターを切り
—————
2022年08月01日 19:07
もう昨年からウオーキングデッドの最終章が放映されている、うちはネットフリックスとプライムビデオしか加入していないけれど、そのうちやってくれるだろうと思って気長に待っていたら、もう既に一年が過ぎてしまった・・・・という訳でディズニープラスに加入して、そうするともう一度シーズン1から見直したくなってしまう、もう三回目、ゾンビは単なる背景であって、そこで描かれている壮大な人間ドラマとしての。絶望を抑圧する効果としてのみ、見い出される希望という事になるのだけれど、本来、もしかしたら、希望とはそういうものなのかな、とすら思えてしまいますが。妥協と反動の狭間で、微かに見え隠れし、徐々に形成される希望、のよ
—————
2022年07月27日 17:40
何かを感覚していることは疑いのない事実なのだろうけれど、それが何であるのか、覗きこもうにもその仕方すら分からない、もどかしさや焦燥。ただ単に言語が不足しているからなのか、それとも刹那の狭間に滴り落ちる、捉え所のない水滴なのか。増幅装置があれば陽炎のような前景化程度であれば、見込めないこともないような気もしますが。匂い、色、温度、音...たぶん、音なのだと思います。音が、狭間の水滴を素早くそっと包み込んで、おぼろげに差し出してくれるような予感。...とか言う、何の生産性もない、単なる寝落ち直前の、掴み所の一切ない、現実界の裂け目です。
—————
2022年07月24日 11:36
仕事が楽しいとか楽しくないとか、楽しくないから辞めるみたいな話も時々耳にしますが、ここで一つ冷静に考えなくてはいけないのは、この「楽しい」という概念の構成成分。楽しいという感じは、音読みにすると「らく」になるのだけれど、そうすると「楽な仕事」の対義語として「きつい仕事」という事になってしまうのだけれど、まさか自分の存在価値やアイデンティティを高める効果のある仕事というものに楽を求めるはずもなく。楽しいかどうかと言う事より、充実感を味わえるかどうかというのが、大切である事は間違いないと思うのですが。充実感、夢中になれるかどうか、自分を誇れるかどうか、自分を高めてくれるかどうか、努力したいと思うか
—————