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2020年01月19日 11:10
賢明な判断によってある程度の方向性が決まったのなら、あとは感情を昂ぶらせて本気の演技でアクティングアウトを装う、たぶんこれはボーダー的な心性という事に限りなく接近するのだろうけれど。ポイントは勿論「なりふり構わず」なのでしょう。
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2020年01月14日 21:04
心という曖昧な概念を排除した時、確かに自分にあると感覚可能なのは無意識でしかないように思います、無意識とそして、その無意識から浮上してくる思考もしくは象形的記号、その記号を映し出すスクリーン、スクリーンの象形記号を意識した瞬間にそのスクリーンが自分の意識であると認識される。無意識には自分が経験した全てが言語として集積されている、入っているのではなくただ単に集積、自分という引力に引き寄せられ続けている言語、これはちょうど地球という引力に引き寄せられている空気と同じような格好で。だから自分の無意識に明確な内と外を区別できるかというと、そういう訳でもない、自分の無意識が他者の無意識とリンクする事だっ
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2020年01月13日 18:42
今まさに自分の目の前で起こっている現象、なにが起こっているかを認識するのは自分なりの思考、という事は自分なりの言語、自分に入力済の言語によって目の前の現象を理解しようとする、目の前の大きな漠然としたひと塊は、それを目撃している人の言語によって分節され、初めて意味を与えられる。言語による分節という作業は、それに直面している人に既に入力済みの言語によってなされるという、その人なりの認識これは当たり前のことであり誰でもそう。現実は認識した瞬間に現実ではなくなるという性質を持っている。どうにも言葉にしようのない得体のしれないものを目撃した瞬間の驚愕だけが、僕らに現実への接近という経験をもたらしてくれる
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2019年11月30日 20:48
つい感情に任せて、湧き上がる衝動として、まあこういう時というのは勿論思考の一切は停止している訳ですけれど、常日頃ひた隠しにしていた本音というか・・・・・・・というよりその数々の行動の原因という事だと思いますが、ホンネとタテマエというのは偽善と偽悪でしかない場合も多々ありますから。その行動の動機という、あまりその人には知られたくはない、知らしめる事で多少なりとも、それを通知された相手にしてみたら義務が発生したように感じてしまうしかない。言わなければいいものを、つい言ってしまうというこれこそが人間らしいという事なのでしょうが・・・・・・・・人間らしいとは愚かという事ですね。何を言いたいのか、最後ま
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2019年11月19日 11:48
適切な自己肯定感を抱き続けるのはかなり大変なこと、漠然とした肯定感は自分をそこに留まり続けさせる事にしかならないし、もしかしたらそれは一切の成長や成熟を拒み続ける身振りにしかつながらないのかもしれない、慢心、怠惰、傍若無人。適切な自己肯定感を辛うじて保ち続けるには迂回が必要それは、自己否定という迂回。自分はまだまだ未熟な存在でしかないとか、自分には知らない事や出来ない事が沢山あるとか、人から思われているより全然駄目な自分であるとか、そういう否定的な想いが根底にあってこそ努力や鍛錬を続ける事が可能なのだろうし人を尊重したり自分自身が謙虚になる事も出来るという。漠然とした自己肯定感などはイチかバチ
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2019年11月04日 10:13
身体に対する刺激には生を実感する効果がある、確かに自分は生きているという事を確認する事が出来る。刺激それは、フェザータッチの愛撫という心地よい刺激の極から、レイザータッチの切り裂く苦痛という対極まで、さまざまに用意されている・・・・・・苦痛は時に倒錯を経由して快に巡り会う事も、一応ここではそれはそれとして、そのスペクトラムのどの辺りで自らの生を実感できるかというのは人それぞれなのだけれど。できれば苦痛ではない辺りで実感できるのがいいのでしょう、そう、今はその他の刺激もポピュラーになっていますね、場合によっては激辛だったり大食いだったり、そういった類も生の実感に接近したりもする。思うに理想的なの
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2019年10月29日 10:44
自分が生きてゆく上での、考え方とか価値観とか、何らかの概念や理論とか、構築と解体を繰り返す。そういったものは、自分が納得がいったものだけを、ただ自分が、実践すればいい、僕はこの部分に関してはあくまでも人間が人間として、あくまでも現実的人間として、超越を排した中で対応するのがいいと思っていますが。人の考え方は、経験を重ねるに従ってどんどん変わってゆく、構築と解体を繰り返しながら決して一つの所に留まらず、あくまでも現実に即した形で、超越を排除した中で。数年前に構築した考えにただすがっているだけでは、時にはそれは、融通の一切効かない人であったりする場合もある、自分というのは環境の流れの中に存在するも
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2019年10月23日 10:41
彼女や奥さんに何を押し付けるか、何の役割を演じてくれとお願いするのか。言いにくい事でもあるけれどーーお母さんーーをそれも、自分が思い描く理想のお母さんを演じてもらいたいという男性も皆無ではない、というか少なくはない、というか、いる、確実に。いる事はいる、割といるだから多くの場合はマザコンに回帰してしまう訳ですが。自分の現実としての経験それは欠如可能性の大いにある経験、僕はもっとこうして欲しかった、もっと甘えさせて欲しかった、もっと優しく柔らかく包み込んで欲しかった、僕の全てを赦し褒めて欲しかった、もっと僕の欲求を満たして欲しかったし僕だけを見ていて欲しかった、ああ、やめやめ、なんか虫唾が走って
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2019年10月18日 11:22
考えないで生きる事に慣らされている、教科書とか本とかネット上の情報とか、それらは一読すれば誰にでも理解出来るように工夫された、時には策略として提出された、平易な言葉で書かれている、時代錯誤的啓蒙。教科書を読む、というか教科書に書かれている内容を覚えるという行為は、知識を吸収するためなのでしょうから、やはり一読して理解可能な言葉で書かれている方が望ましい・・・・・・・覚える事と考える事は違う。教科書を読む、知識を吸収する、いや暗記と言った方が適切か、知識を、データを自分にインプットする、その事と自分の頭で考える事とは違う場合もある。考えないままに生きる方が楽なのでしょうか、現象に対して反応する、
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2019年10月17日 21:36
誰かの味方をしたり、誰かの肩を持ったり、誰かを守ったり。誰かを守ろうとするのはその人が優しいからなのかというと、そうとは言い切れない場合もあるように思います。なぜ誰かを守ろうとするのか、それは勿論その誰かに感情移入した結果なのかもしれませんが、それ以上に、その人を守るという事は、その人を苦しめるものから守るという事、その人の敵からその人を守るという事、そこでは、なんでしょうか、攻撃、戦い、その人の敵と戦うというこれは、性分としての歓喜と言い切ってもいいと思いますが、要はその人を守ろうとするのは自分が戦いたいから、、だから、もともと自分が非常に攻撃的な性分だからという事でもある。守ろうとする原因
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