記事のアーカイブ
2019年10月15日 20:43
あれはなにACの文脈なんだろうけれど「親を責めてもいいんですよ」とか・・・・・・・・いったい何のことだか分かりませんが。責めていい? 何故でしょうかそれは? まあ、百歩譲って数回くらいはいいとしても、ただそれは正々堂々と対峙する為、そこで親が引いてくれれば後は議論、決して憎しみをぶつけ続ける必要はない、引いてくれたその先は自分自身の形成に費やした方がよっぽどいい。対峙して、思いのたけをぶつけて引いてくれればそれでいいし、逆に親側が自己防衛に走るのだとしたら、そこで見限って切断すればいい。一番よくないのは親が神妙に聞いているのをいい事に、幼少期の事実についての感情をぶつけるだけではなく、自分の今
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2019年10月13日 10:38
ニュアンス的イメージ的には「俺の彼女」ではなく「俺の女」なのだろうし「私の彼氏」ではなく「私の男」なのだと思いますが。彼氏や彼女というのは、お互いは一個の個体であり個人であり、だからこそ尊重する態度であったりリスペクトであったり、そういうものがベースにはなっているのだろうけれど、あと妙な執着とかも、言ってみれば彼氏彼女という個としての男女が・・・・・・・ああそうだ、円と円がくっついているイメージ、ただ一点の接点でちょこんとひっついているイメージ、これは一点でしか接続されていないので不安定、だからこそ疑心暗鬼にもなる。俺の女とか私の男とかいう、言ってみればちょっとヒンシュクすら買いかねないイタイ
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2019年10月05日 17:23
「愛とは、ある一つの主体が別の対象に向ける執着であり激烈な感情、それはしばしば両価性を持っている」というのが間違いのない、自明、だから愛とはその程度のものでしかないのだろうけれど。愛とは奪うものであるとか、与えるものであるとか嘯かれつつ、そんな本質を実践してみたところで虚しさにしか行きつかない、破壊、切断、消化・・・・・・これは勿論精神的にという事ですが・・・・・・・その結末は、全てが跡形もなく消え去るしかない虚しさ。でも、実際に奪おうとしても奪えるものではないし、与えようとしても拒まれればそれまでの事、ああでも奪う事の方が簡単でしょうか洗脳という手段がある限り、しかし、支配したところで相手は
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2019年10月04日 16:05
入力出力共になし、境界の自己決定、廃棄物が新たな廃棄物を生むと言う再生産し続ける在り方・・・・・・・第三世代システムこそが恋愛の只中にいる二者の状態を最も上手く表すように思います。愛を奏でる事を命題としたシステムとして密閉される二者、恋愛中の二人はそのシステムが作動し続ける為のファクターとなる、だからシステムそのものが主であると。そのシステムを作動させる構成要素にお互いがなって、というのは俗に言う「愛の奴隷」となって。二人はシステムの内部からしか自分たちの状態を確認する事は出来ない、というか確認などしようとも思わない密閉された二人だけの世界、だからこそ他人の意見などには一切耳を傾けないのですね
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2019年10月01日 10:12
多くの場合、趣味とかでしょうか強いてあげれば、何をしている時が楽しいのかというのは。趣味、自分の興味のある好きな事に夢中になっている時というのは、その時の状態を言い表せば、楽しい状態と言う事になる。どんな趣味でもいいのだけれど、夢中になって、もし上手くいかなければ何度もトライしてとか、試行錯誤してとか、寝る間を惜しんで突き詰めてとか、その結果としてなにかが完成して。そこにはただただ楽しいという感覚だけではなく、苦しいという感覚や焦燥感も含まれているのだけれど、しかしそれは自分がやりたい好きな事をやっているのだから総体的に見れば、その状態は楽しいという感覚に還元される。楽しいと楽は全く違うのだろ
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2019年09月07日 19:20
とても細い幅の橋を注意深く足元を見る事もなく何故か軽やかに歩き続ける。その橋の下は穏やかに、ただしねっとりと、自分が歩くスピードと同じ速さで流れている足がギリギリつかない程度の深さの用水路にもにた、鉛色の生暖かい重水。人は誰でも何時でも、そこに体ごと転落してしまう事がある。それを運命だと諦めなければ、いつでもその重水から這い出る事が出来る・・・・・・・ように思います。極端な低音を響かせ続ける、ある意味魅力的でもあるピアノの旋律のような鉛色の重水。
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2019年09月05日 11:27
軌跡には悲しみしかない、だから決して振り返る事はないのだけれど、今の自分を形成しているのは過去の経験、自分というのは過去の経験の賜物という観念の集合体。そのコンプレクスが今の自分に何らかの衝動を明示してくる、だから過去の自分という悲哀をもとにして原動力にして、動き続けている自分。動き続けるのは何故か・・・・・・・・希望を求めているからなのかもしれないし、そうではなく諦めという納得を得るためなのかもしれないし。結論は常に先延ばしにされる、それに羽はあったのか。
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2019年08月06日 10:19
社会の成熟そしてサブカルチャーの進展に呼応するように「かわいい」は射程を広げ続けている、多くのものが「かわいい」と表現される。この「かわいい」は元をたどれば二種類に集約される、一つは乳幼児~幼児そしてイヌやネコという小動物、庇護のもとに置き所有したくなるもの、これらが、特に乳幼児の身体的アンバランスは現在の二次元や二頭身三頭身キャラやご当地ゆるキャラにも発展した。そしてもう一つは、男性が女性に向ける感情としての「かわいい」という褒め言葉、フェミニズム以前、もしかしたらそれは男尊女卑の時代、その頃、その言葉を発する男性、かわいいの条件は何だったのか。最大の条件は身体性、要は性的身体に対する褒め言
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2019年08月04日 10:11
変哲のない、平凡な日常を送り続けていた少年少女が大した前触れもなく世界を救うヒーローやヒロインになる・・・・・・・・これまた、実際に一瞬で肚を決めて自らの潜在性を一気に開放させその結果、本当に世界を救ってしまうから凄い。昔も今も変わらない、根拠のない自信、単なる潜在性の宝庫としての自分、ただ昔は自分から何かを選択してその環境にある程度の覚悟と共に侵入していかなくてはならなかった。今の時代は、社会の舞台裏が暴露され尽くしているから、何をやっても無駄だし、なにをやってもそこそこにしかならない事は目に見えている、やった所でたかが知れている、だから敢えて能動的に動く気にもなれない、なれないのだが、やは
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2019年07月15日 17:04
考え始めるとどんどん深掘りしていってしまって、その先で具体的な言葉で表現出来るのかというとどうしてもそれは不可能、だから避けようのない、抽象的表現の洪水になってしまうのだけれど。自分、自我、自己、自意識、無意識、なにかそんなようなありきたりを常にすり抜け続ける、これは、経験の集積、そしてその集積に螺旋状に付帯している感情の集積、何故螺旋状なのかというとそれはフロイディアンの言うところの心的装置側鎖モデルのようにその場その場の、そしてその時々の自分の在りようによって唯物論的に感情が立ち現れてくるから、だから、同じような似通った経験の時に必ず同じ感情が湧き上がる訳ではないという意味。そんな、経験、
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