神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2018年11月16日 09:19

ひとりグローカリゼーション的な

一般論、世間の目、常識、世間体、社会の中で自分が生きる以上、こういった多くの人が共有している価値観をないがしろにする訳にはゆかないのでしょうね。多くの人が共有しているコンテクストを敷き詰めていない者は、単なる圧倒的他者でしかないのですから、受け入れられるかどうかというのはちょっと微妙なところでもある。多くの人が共有している一般的価値観に、ただ反発するだけでは誰からも見向きもされない。一般的価値観を了承した上で、というのは一旦自分の根底に据えた上で、その上で尚、湧き上がってくる独自。それは一般論と固有性の落しどころなのか、一般論の刺激によって全く新たに生成されたハイブリットなのか、自分が社会で主

—————

2018年11月07日 17:25

自分の片割れを求める

行為されているその性交渉が何に由来しているのか、というのはかなり大切な事であるように思います。肉欲由来なのか、性欲由来なのか、そこには決定的な断絶が存在する、肉欲に由来しているという事は、その交渉の目的は性器的昂ぶりを開放する事、であればその相手はある程度は誰でも、とは言いませんが、よく許容範囲とか守備範囲とかギリオッケーとかいう言葉も耳にしますし、だからこの人でなければという事ではない、肉欲由来の場合は「やりやいだけじゃん」みたいな手痛い言葉を浴びせられる場合もある。・・・・・・性欲由来というのは、男女の場合に限ってはそれはアンドロギュノス、引き裂かれた片割れを求める、元々は一体をなしていた

—————

2018年11月06日 09:33

メタ自分

自分などというものは、何者でもない、なんのアイデンティテイも持ち合わせていない、明確な価値観なども持ち合わせてはいない、自分は空虚であり又、混沌でもある、突き詰めればそれは渦巻く言語の塊でしかない。自分の内界という、ただ渦巻いているだけの言語は外部からの刺激によってのみ、その場にフィットすると予測されるインターフェースを形成する、多分これは意識の管轄外において自動的に。僕らは本来的に、その程度の無器官体、まず初めに無器官がある。他者と接する時にのみ、その他者の要求に応じて混沌から何らかの自分、それは他者によって役割を与えられた自分になる、勿論これは喜びを伴い本気で演じているという状態としての自

—————

2018年11月04日 10:15

「・・・・・・おかあさん」

事象に積極的に飲み込まれてその状態を楽しむ事を自らに禁止するという超禁欲的な態度の副産物として見えてくるもの、客観的な冷静な観察から前景化してくるもの、それは多くの場合、お母さん。いやこれは実は、僕は全力で嫌悪と共に否定したい情景でもある、というか自分にはそういった感情が欠如しているがゆえに抗いたくもある。そう、多くの場合、最後に衝動的に想いを向けるのは、お母さんである事が非常に多いように実感しています。助けを求める、包まれて安心する、不安を和らげてくれる、傷を癒してくれる・・・・・・・これは心的現実としての母親の像という事ではなく、実体のある本当の母親に対して。まあそう、自分の発生源な訳です

—————

2018年10月28日 10:14

ファリックで在る事に対する憧れ

人生の中の選択とか大きな決断とか岐路とか、そんな大それたものでなくても、ただ単純に、やるかやらないか、対峙するか逃げるか、自分を律するか甘やかすか、筋を通すかフェードアウトを企むか、行動、それは人の為である場合も自分の為である場合も勿論あるのだけれど、どんな場合にしても逃げずに進む事というのは、しんどい、逃げたり避けたりする方が間違いなく楽、そこでは自分をだますという工夫は必要にはなってしまうのだけれど。自分の為でも人の為でも、取り敢えず逃げずに動こうとする時、僕の場合はある一つのセリーがそこに、だからこれは構造としてどこかのタイミングで自身の内部に構築されてしまっのかもしれない。現象に出会う

—————

2018年10月24日 10:33

多重人格的もしくは多重見当識的に

社会の中で生きる、生き延び続ける、そこに存在するのは、いくら否定を試みようとしても失敗に終わる、やはり競争や比較や評価という現実。それを否定する為にオンリーワンとか、かけがえのない僕ら一人一人などという虚構ワードも用意されている事はいるのだけれど、そてはただ社会の現実をポエムで覆っているに過ぎない事は誰もが本当は分かっている。万が一社会の中において一人一人がオンリーワンであると、社会から認識されているのであれば、それは交換不可能という事になってしまうのだから、一人が欠けたらその社会が成り立たなくなる、ただ、そんな事実はない訳で誰だって社会から見たら交換可能。ああ、話が逸れました、こんな事を書こ

—————

2018年10月23日 10:32

自分の意味?

「別に自分に意味を見出したりとか、そんな無駄な事しなくていいんだよ、意味なんか人が勝手に押し付けてくるのだから」とか言うこれは理性を突き破って鋭角に浮上する本音なのか、なんなのか、ああそう、本音、ホンネとタテマエ、どちらも本当の事、露悪的に語るかどうかと言うことでしかない、乱暴に投げやりに語る身振りという作法としてのホンネ、自身が内包する暴力性を満足させる行為、なにか言った瞬間にスッとしたりもするカタルシスティックな効果すらもたらす。「自分はこうである」と宣言したとしても、その目論見としての宣言のまま100%の自分を環境が受け入れてくれる訳ではない、自分の主張と他者の認識には必ず大きなズレが生

—————

2018年10月19日 11:25

夢が語る

理性による精査を積極的に怠る中で無意識に勝手きままに喋らせると、それは論理的破綻でしかないし、ハッキリと言えば支離滅裂、いったいどこの大文字に自分は侵入しているのかとかある意味、シニカルに感心してもしまうのですがその奔放は自分の頭でものを考えるキッカケを与えてくれる、自分が自分としてしか生きる事が出来ない証明であるかのような、しかし注意していないと一瞬で走馬燈のように消えさってしまう脆く不確かなという意味においての確かさ。夢がしゃべっているような感覚・・・・・・・・・・ある主体が人前に出るとある一定の行動や情動の変化を常に経験してしまう、その事に息苦しさを感じてその変化を是正したほうがいいので

—————

2018年10月16日 09:49

陽炎の点滅

・・・・・・・・・・振り返れば、学生の頃や社会に出てからの折々に、なにか頭の片隅にはなりたい自分的なヴィジョンがチラつきはしつつも、ただ、そこを直視して明確にするという事は・・・・・・・・という事実は存在したのかどうなのか、もしかしたらこれはただ自分が、自分は学生の頃からある一つの目標のようなものを持っていたのだと思い込みたいだけではないのか、そして長い年月を暗中模索紆余曲折しつつ、なんとか辿り着く事が出来たというナルシシズムに基づく自己肯定でしかないのかもしれない、というかきっとこれは断言した方がいい、単なる自己肯定の身振りであると。自分にはそんなような、そこに向かって激しく行動しなくてはな

—————

2018年10月11日 09:49

出力問題ーー僕ら生命にとっての楽ーー

なるべく、エネルギー出力を低く抑えた方が楽、エネルギーの出力を低く抑えるのに一番いい方法は、何もしない事。まったり、ゆったり、弛緩して、思考を停止しつつただ漂う、これが一番楽なのだけれどそこでは自分は生きているという実感はなかなか得る事が出来ない。高揚、集中、喜怒哀楽という感情の大きな変化、喜びや痛み、ハードワーク、こういう何もしないという漂い続ける弛緩の対極にだけ生きている実感があるのでしょうけれど、そこでは常に心身の緊張を強いられる訳だから、楽ではない、高出力は楽ではない。この出力問題というのは結構大きな問題だったりもして、何かをやろうという想いと何もしないで自分という生命にとって楽な場所

—————