神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2018年10月10日 09:56

その時、幽霊の立場は?

大人になってからの中二病の名残りというのは時には環境の中で自分が上手に生きる為の工夫でもあるし、別に悪い事ではない。...

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2018年10月07日 10:14

機幸せを実感する機械

「はたらく細胞」は細胞擬人化アニメとしての楽しさは勿論あるのですけれど、なにかそういった事以上に赤血球や白血球のキャラクターを見ていると、思わず考えさせられてしまう、ああそう、血小板のキャラクターはやたらと可愛らしい。組織の中の一つの不可欠な要素として100%の力でそれぞれが活躍し続けるというより作動し続ける、そこに迷いは一切なく、自分の役割に一切の疑問は抱かない在りのまま、今以上の自分でも今以下の自分でもなく全てを受け入れて当たり前の事として。機械として動く感覚に近い、機械にはその機械が生み出された原因があって、その機械の役割というのは生み出された瞬間から決まっている、その機械を作動させる時

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2018年09月30日 10:51

食べちゃいたいくらいカワイイ、とは?

「ほんとカワイイ、食べちゃいたい」というのは性欲や性器欲由来ではない場合も多いように思うのですけれど、食べちゃいたい、というのは多分、暴力には変わりないのだろうけれど、暴力によってその対象を自分にとってどのように取り込もうとしているのか、食べちゃいたいというインパクトを与える事によって・・・・・・・・精神的侵入、独占、所有、自分のものにしたい、そのものが欲しい。「食べちゃいたいのだけれど・・・・・」と提案された人は、大きな衝撃を感じる、そのシンプルな言葉は自分の中で様々に分化増幅する、極度に情報が圧縮された短い言葉、自分はどうされてしまうのか、ただそこで向けられているのは敵意ではなく好意である

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2018年09月27日 10:03

二度と戻れない場所

エリックサティの音楽はとても魅力的、魅力的であるからこそとらわれるとちょっと、なかなか抜け出せなくもなってしまう。どこから抜け出せなくなるのか、幻想とかファンタジーとか心的外傷とか、激しく交差し続ける絶望と希望とか、閉塞の中での弛緩もそうか、あとメランコリーからも、僕の場合は特にグノシエンヌ、他はそんなことないです、だからグノシエンヌがそれだけど真ん中ということなのかもしれません。グノシエンヌを聞く事によって僕はどこに誘われるのか、というより引っ張り込まれるのか。乳房・糞便・声・眼差し、帰りたくても決して返る事は出来ない、永遠に失われた場所、二度と取り返せない、そのもっと先にあるのは胎内回帰み

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2018年09月23日 10:55

無音の絶対零度

BANANA FISH...

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2018年09月18日 10:33

若者に未来を託す

僕ら位の世代から発せられるでしょうか「未来を作るのは子供たち」とか「若者に未来を託す」とか。まあそうである事は確かなのでしょうけれど、せめて丸投げではなく、理解を示したり、言うべき事は言ったり、その先で完全にバックアップしたり、という事は間違いなく必要なのでしょう。僕らの世代、それは振り返るにバブルの残り香世代という、無責任なのか不感症なのか分かりませんけれど、やりたい放題、誇大な自己愛、よく言えば自由奔放、それは何故かというと、剰余を消費しながら生きる事が可能だった世代、もしくは時代の中の一時期。僕らの若い頃はまだ若者というのは出来損ないの大人でしかなかった、大人がまだ力を誇示する事が出来て

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2018年09月13日 10:23

自分の中の親父

自分の父親について何故か、いきなり変な事を思い出しました。学校を卒業して就職した時、普通は就職おめでとうとか、社会人としての心得を先輩社会人として話して聞かせるとか、普通はもしかしたらそんな感じになるのだと思うのですが、うちのオヤジは僕が就職する時「いいか、いつか他にやりたい事が見つかって、これだっと思ったら、かまわねーから今の仕事辞めてそれやれよ」と言った。これはオヤジ本人が一つの仕事を大学卒業以降定年まで、大きな物語りを仰ぎ見ながら、しかしそれはもしかしたら忍耐強く家族の為にという事なのかもしれませんが、やり切ったという人生に対する一寸の不服申し立てであったのかもしれません、ただ定年後に仕

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2018年09月09日 20:31

幸運を・・・・・・。

全ては偶然として自分の元へ到来する、その偶然が自分にとって有効だと判断して手に取った時、それが自分に到来したことは必然であったと思い込める、特に、自分にポジティブな変化が生じた場合。あらかじめ自分の元へ到来するように予定されているものなどはない、もしそのようなものがあるのだとすれば、それが到来するまで何もしないでただ時間を浪費しながら待っている事も可能という事にもなってしまう。何かが到来するというより、本来は全ては自分の傍をすり抜けてゆくだけ、そのすり抜けてゆくものに可能性を感じて、敏感に察知して、僕等は手に取る。自分の元へ到来するようにあらかじめ、予定されたものというのがもしあるのだとすれば

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2018年09月07日 09:49

北海道の立派な青年

北海道関連のニュースの中でのインタビュー、その方が画面に映し出された時僕は20歳前後の男子という認識を最初に、迂闊にもしてしまったのですが、それは僕の見誤りである事に数秒後に気が付きました。まだ見つかっていないご家族がいるそうで、涙をこらえながら一生懸命報道陣の質問に答えている姿に、勿論その映像を見させて頂いている僕らは涙する訳ですが。迷惑ばかりかけてきて、今どうにかなったら悔やんでも悔やみきれない、申し訳ない、という趣旨の事も話されていました。報道陣に囲まれる、カメラやマイクを向けられる、そのカメラやマイクの向こう側にあるのは社会、その映像はテレビを通じて多くの視聴者に、というのは社会全般に

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2018年09月06日 09:53

抒情詩と共に

抒情詩としてのリリック、ポエジー、ナルシシズムにより美しく装飾される想像的範域、直面し続ける現実を緩和するある意味、緩衝材としての想いとか情緒とか、まあこれは思い込みも含めて、そう、僕らは現実を自分の思いこみによって装飾しない事には生きては行けない、喜びの元でという事でなければ生きてゆく事は出来ない、ファンタジーと紙一重ではあるのですが。客観的視点もしくは象徴的視点からしたらその態度は愚かであったり無駄であったりするのかもしれませんけれど、その愚かさとか無駄というのは、その人にとってはかけがえのない、大切なものであり大きな喜びを自分にもたらしてくれるもの。ある意味、愚かさというのは生きる上で最

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