記事のアーカイブ
2018年09月04日 09:52
様々な人格障害の概念がある中で、自己愛性人格障害に親和性のある方というのは、その特徴を生かして社会でポジティブに機能している事もよくある。まあそう、誰だって何らかの人格障害に親和性があるのでしょうーーー性格の延長線上に極北として鎮座しているものですからーーーその人格のままきちんと機能する事が出来るかどうかというだけの事。だから自己愛性人格、と言うのがいいのだと思います、自分の本来的な負の部分は心の奥底に抑圧しつつ社会で機能し続ける、ある程度、もしくはとても大きな社会的役割を担っている人も勿論いらっしゃる、穏やかさを装ってもいるというか、私はこうあるべきであると纏っている、頼もしく穏やかな人格に
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2018年09月02日 11:36
自分が適切に動くには動くための機関が必要、心という概念を排除したその先において。自分というのは身体と精神で出来ている、精神は無意識と意識で出来ている、心を可視化する時、無意識、自我、超自我とかを用いられたりもしますが、そもそも超自我などというものを感じた事もないですし、自らを律しているのは幼少期において社会性の萌芽として無意識の中心に存在感をもって据えられたファルス、そのファルスが経験と共に屹立性を増す、自らを規定しているのはただ唯一、そのファルスに他ならないように思え。無意識と意識という概念にしても、今一つ僕にはハッキリとしない、どこまで広がりを持つのかすら定かではない無意識、というのはそれ
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2018年09月01日 10:31
自分の考えを言うのは何の為なのか、啓蒙の真似事、自己主張、自己顕示欲、承認の為、教育の賜物、共感を得る為・・・・・・・・僕には分かりませんし全くピンときません。ある事象があって、それに対する自分の考えを言う、その事象が視点によって、見る角度によって、1000通りの考えがあるにもかかわらず、唯一に絞った、1000のうちの唯一つの考えを選択し主張する、自分はこう考える、と。自分の考えなどというものは必要なのでしょうか。ああも考えられるし、こうも考えられる、そして視点を変えればこんな風にも考えられる、というのが普通だと思うのですけれどね。その事象やその問題に対して万が一何らかの行動を起こす時には、そ
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2018年08月29日 11:37
本当の自分、というのはどこにいるのか、自分のどこを検索すればその、本当の自分というものに出会う事が出来るのか。社会生活を送っている自分、一員として社会に対応している自分、極論すればそれは強制的な自分という事なのかもしれない、要求に応える自分、規定される自分、こうあるべき自分、こうあり続ける事によって社会から承認を得る事が出来ている自分、その承認によって保たれている自分。アイデンティフィケーション、100%その強制的な自分に同一化しているという事は決してない。だからその強制力の副作用として取りこぼす要素というのがもしかしたら、本当の自分と認識可能なものなのかもしれませんけれど。強制の効果としてな
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2018年08月27日 10:59
僕の周りには社会的立場もかなりしっかりとした、そして十分に機能し続けているアニメ好きの大人がかなりいるのですが、だからいろいろと薦められもします、知による変換も必要なアニメ。アニメ、少年期青年期の、まだ完成以前の若者が思いもよらずに巻き込まれるところから始まったりもする。はじめは戸惑いながらも、徐々に状況に適応し始め、それは時にボーダー的に、秘められた能力を発揮し始める、血のにじむような修練の先でとかそんなような文脈ではなく、元々の能力が外からの刺激によって開花する。僕はこういったストーリーというのは、人間の在り方を象徴しているかのように思える、何の努力もなしにそんなことが出来るわけない、と言
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2018年08月22日 10:23
生まれてきて、自分が初めて鏡を見てこれが自分であると認識するまでは、自分に身体の統一的感覚というのはない、鏡を見て初めて自分の身体輪郭を理解する、鏡を見て初めて、身体の原初的寸断状態から解放される、ひとつに統一された身体となる、そして自我が形成され始める準備。だからその鏡の段階以前は統一感覚の無い言わば、寸断された身体というぐにゃぐにゃとした感覚でしかない。僕は昔よくこの寸断された身体の夢を見ました、特に30代の頃。どういう状況の時にその夢を見たかと言うと、現実的な生活、これは特に社会生活、だから仕事においてという事ですが、ある程度の成功が続いていて、あまり不安要素も見いだせずに、なんとなく満
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2018年08月21日 20:59
クレージーケンバンドのケンさん、生涯現役を宣言している。時々鋭い、というより納得するしかないリリックに出くわす。AMANOGAWAでの「忘れられないあの人のバスト・ウエスト・ヒップ、完璧じゃないけど俺にとっちゃ特別な女よ・・・・・・・・」みたいなのもそう。性関係は想像的領野において行為される訳ですから、相手のただ一点に通路を見出し侵入に成功してしまえば、その性愛の対象者は想像界において世界一魅力的に生成され始める。であれば、完璧ってなんだ、完璧な美ってなんだ、という事になってしまうのですが。黄金比、理想とされるサイズ、数値、対比、これが侵入経路になるのかというと決してそうではない、侵入経路とい
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2018年08月21日 10:23
静岡の伊東、まだ幼稚園にあがる前、2歳くらいか、汲み取り便所だった小さな平屋、一人で留守番というか置き去りというか、祖父母や父母という自分の全ての家族がそれぞれの予定で出掛ける直前に修理中で便器を外したままのトイレに誰だったか、僕の手を引いてゆき「いいか、便所にはいる時は気をつけなさい、ちゃんとまたがないと落ちるから、大変なことになるから」と言い聞かせ。ただまあそう、気を付けないと落ちると脅されれば、大変なことになると脅されれば、その大変なこととは何なのだろうかと、実際に落ちて確認してみたくもなるかもしれません、悪魔の囁きとして。全ての人が出かけ一人取り残された時、たしかに率先して、自分から落
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2018年08月18日 12:40
ここ何日かのある意味カラッとした、それほど気温も高過ぎないし過ごしやすい湿度でもある、外を歩いていても汗を意識しなくて済む伸びやかな心身。僕ら世代の人からは昔の夏ってこんな感じだった、みたいな言葉も聞かされるのですが・・・・・・さて、どうだったか、確かに、そう言われてみればそうだったような気もしなくもないのですが、とにかく過去と言うのは都合によって装飾美化されてしまう訳だし、先日までの超高温多湿を耐え忍んだ先で予想外に出会った過ごしやすさという事を考えると。早朝のラジオ体操、宿題は涼しい午前中のうちに済ませましょう、となるとやはり昔の夏は過ごしやすかったという事なのか。カキ氷、妙に薄いカルピス
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2018年08月14日 09:56
「死ねよオマエ、オマエは仕事だけしてればいいんだよ、全てを犠牲にしろ、喜んで全てを差し出せ、今までどれだけの時間をやり過ごしてきたのか分かってんだろ、さんざん回り道ばっかりして、それも何十年も、可能性を狭め続けて今更、やっとイヤじゃない自分に辿り着いたとかヌルイ御託言いながらすかしてる暇があるんだったら人の100倍働けよ、今まで薄ぼんやりしてた分を取り戻せよ、自分が生きる意味にしがみつけ、命かけろよボンクラ、それが出来ないんだったらオマエ、死ねよ」・・・・・・というような湧き上がり続ける自分に対する怒りを、よくお客さんに「いつ休んでるんですか?」とか「ストレス溜らないんですか?」とか聞かれるた
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