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「・・・・・・おかあさん」
2018年11月04日 10:15事象に積極的に飲み込まれてその状態を楽しむ事を自らに禁止するという超禁欲的な態度の副産物として見えてくるもの、客観的な冷静な観察から前景化してくるもの、それは多くの場合、お母さん。
いやこれは実は、僕は全力で嫌悪と共に否定したい情景でもある、というか自分にはそういった感情が欠如しているがゆえに抗いたくもある。
そう、多くの場合、最後に衝動的に想いを向けるのは、お母さんである事が非常に多いように実感しています。
助けを求める、包まれて安心する、不安を和らげてくれる、傷を癒してくれる・・・・・・・これは心的現実としての母親の像という事ではなく、実体のある本当の母親に対して。
まあそう、自分の発生源な訳ですし、究極的状態になれば衝動として回帰したくもなるのかもしれません。
これはたぶん、幸せな事なのだと思います、そう、幸せ、幸せといえばこの構造がしっかりと機能している方というのは、自分をキチンと適切に、理想的に愛する事が出来ている人である場合が殆ど。
じゃあ、そうではない人は「お母さん」という衝動が湧き上がってこない人は、とか考えると、僕の場合は、別に母親との関係性がどうだったからとかとか言うつもりは一切なく、自分を理想的に愛せているかというと、愛してはいるのだがそれは一般的に言われる愛ではない、僕の場合はラカン派精神分析的な、執着としての愛、自分に向ける妄想分裂態勢としての執着と言った方がいいか、だから怒りを自分に向けている事も多い、まあこれは間違いなく、適切な愛ではない事は確か。
しかしねえ・・・・・なぜ多くの場合「お母さん」なのか、守ってくれるとか頼りになるとか、そういう事からすると「お父さん」のほうが自然であるように感じるのですけれど、そこはやっぱり発生源である母親の方が強いのでしょうか。
父親というのは、男子の場合は打ち倒すもの、女子の場合は奪うもの、とかなると、それは頼りにはならないものという事でもありますね、だからやっぱり「お母さん」なのか。
ああそう、これを否定したいがために、自分が守り癒す立場に立とうとする、という衝動もある、これは自分のお母さんを否定した先で、自分自身が理想的な母性を完璧に表明するという姿勢として現れる、理想的な母性を演じながら自分のかつての母親を全力で無意識的に否定する身振り、ただ、それが昇華なのであればそれはそれでいいのではないでしょうか、様々な経験の先で、いつかは一般的に言われるところの愛をもって、自分を愛せるようになるのでしょうから。
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