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「心」効率とは相容れないもの
2017年01月07日 21:38物理的な時間に対して、心的な時間と言うのは存在するのか。
物理的時間と言うのは、時計の針が示すように1秒ごとに規則正しく進んでゆくのでしょうが、心的時間と言うのは、どうもそういう訳ではないように思えなくもなくてですね。
まあしかし、1秒とか言うのも変な話で、日が昇って陽が沈んで月が出て、朝から夜まで、そしてまた朝まで自動的に移り変わる外界・環境を、人間が掌握する為に勝手に規定したものなのか、だから時間に追われるというのもね、自分たちで勝手に便利なように自然を枠組みにはめ込んで時間と言う概念で切り刻んだまではよかったのだけれど、今度はそれに追われちゃう、みたいな、よく分からん事態になるのですね。
と言うか、そういう話じゃなくて、心と言われるものは時間などというものを認識しているのか。
一つの事に取り掛かって、それをこなして、完遂する。
取り掛かるまでは確かに時間は流れていますね「あ、今○○時だ」とか思いますから、そしてこなしている間、夢中になっていればなっているほど、集中していればいるほど、自分は時間の感覚の外側に存在している、で、完遂した時「うわ、もう○○時だ」となる・・・・・・夢中になっているうちにあまりにも多くの物理的時間が過ぎ去った事に驚く、時には浦島太郎、的に。
これに限らず、一つ一つのタスク、一つ一つのイベント・・・・・・それに取り掛かっている時、自分は物理的な時間の枠外に脱出している、それが楽しくて夢中になれる事であればあるほど、もしくは苦しい事であればあるほど、明確に時間の枠外に脱出する、解離する、もうひとつ、ボーっと脱力している時に解離していつの間にか時間が過ぎ去っている、というのもありますね、外界と自分の隔絶。
・・・・・心と言われるような領野には、時間の概念は存在していなくて、そこに在るのは、自分が経験した事が、歴史として年代順に積み重なっている場合、とらわれざるをえないものとしてインパクトの大きい順に関連性の中で積み重なっている場合。
自分の精神の外界には物理的な時間が存在していて、外界と自分がコンタクトしている時はその物理的な時間を感覚している。
外界を遮断して自分の精神の内界にダイブしていった時には、自分と外界が切断されている訳だから、そこには一切時間は存在しない。
心と言われるものに物理的な時間を当て嵌める事は不可能で、そこに在るのは、ただ経験の名残り、詳細な日記のような記述を積み重ねた束、記憶。
ここで冒頭に戻れば、心というのは人工的に規定・掌握できるものではなくて、どちらかと言うと自然界に親和性のあるもの、心に時間の概念を適用できないのと同じように自然界にも、もともと時間などという概念はなかったのですから・・・・・そうか、人間だって元々は自然界から発生した訳だし。
時間というものを発明して、自然界の流れを掌握する事には成功したのだけれど、そして時間というものが存在するおかげで、効率よく活動する事ができるのだけれど、その効率から、心と言われるものだけが唯一取り残された。
じゃあなに?だから人は自然に触れると心が癒されたりするの?
・・・・・・・・なんか思いつくままに書き連ねていたら、いつにも増して支離滅裂になりました、この辺りでやめておきます。
心と言われているものと、効率というものは、相容れないのでしょうか。
物理的な時間が過ぎ去ってゆくのに対して、心的には・・・・・時間ではなく経験が過ぎ去り、記憶として蓄積されてゆく。
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