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「現実」の不可能性

2016年07月24日 09:24

山の向こうに夕日が沈むのを見て、なんとなく寂しく感じる人、充実感や勇気が湧き上がってくる人、明日へ希望を見い出す人、「わあ、きれいな夕焼け」得した気分に浸る人。
そこにある現実というのは、ただ太陽が自分の今いる場所から見えなくなる寸前に太陽光が大気の層を日中より長く通過する為に青系の色は届きにくくなり、赤系の色が目立つようになるという現象が起きている、というだけの事なのでしょうが、そしてその事だけが夕日を目撃しているすべての人に起こっている現象、という「現実」なのでしょうね。
でも、こんなような屁理屈を言って、現実をそのまま認識しようとする人はいない訳で。
ほとんどの場合、その現象を自分なりの言語によって分節して認識するから、冒頭のような、人それぞれ、さまざまな想いが湧き上がってくる。
というか、自分が現実を認識しているような気になろうと思ったら、それは自分の言葉によって自分の意識を通して認識するしかない、そうですね自分の言葉によって認識するしかないのですから、そして自分の中にある言葉というのは、自分の経験してきた事や学習してきた事によって自分のものとした言葉な訳で。
全ての人が同じ経験の中で今日に至っているのであれば、湧き上がってくる想いは誰でも同じような想いになるのかもしれませんが、そういう訳ではないですし「ちょっと見方を変えてみましょうか」みたいな言葉は必要なくなってしまうのかもしれません。
だからやっぱり、一人一人、感じ方や考え方というのは違って当然なのでしょうね。

ちょっと趣旨からずれてしまいますが・・・・・・・
多くの事において、現実を現実のまま認識する事を阻害しているのは、言語という事になるのでしょうか、思考や認識は言語によってなされますし。
そして言語がなければ複雑な思考も発達しなかったのでしょうし、そもそも人間はこんなに繁栄しなかったのでしょうしね。
現実を現実のまま認識するというのは、僕にはどうやればいいのかすら分かりません、なにも感じなければいいわけでもなさそうですし、もしそうだとしたのなら生き延びられないようにも思いますし。
言葉で認識するから、自分なりの想いに乗った認識になってしまう訳で(その瞬間に現実を自分なりに色付けしているとも)、ていうかもっと単純に車・道路・家・水道・冷蔵庫・・・全て言語によって名付けられていて言語によってしか認識できない訳ですね、だから想像するに、言語化される前の乳幼児期の状態が一番近いのか、でもあの時代って一人では生きられない時代ですし、その状態で身体のみが成長したとして・・・快不快、安全危険、逃げる襲う隠れる、捕食する捕食される、本能的な?欲求?
言葉が無い事には思考も発生しないようにも思うので、これしか感じられないような気も、そしてその状態ってなんとなく恐怖や不安に囚われ続けている状態でもあるような、身を守り続ける為に。
そう考えると、現実=恐怖、と言えない事もないのかもしれなくて、だから言語というのは恐怖を和らげる、なんというか緩衝材のような働きもあったりするのか。
言語と共に在る今でも、言葉にできない恐怖、ある事情により言語化を免れている経験、もしくは言語化を拒否している経験、というのもありますし、言語化不可能であるが故に恐怖と認識するしかない現実、という場合もありますしね。
状況に言葉が追いつかない瞬間って言うんですかね、急すぎて認識が追いつかない時、僕も経験ありますが、運転中の急ブレーキとか、階段踏み外して転げ落ちる瞬間とか、台風の時サーフィンしていてあまりにも大きすぎる波が迫ってきた瞬間とか、なかなかうまい説明が見当たりませんが、こういう経験も言語化という認識が追いついていない訳ですから(一瞬思考が止まりますし)、一瞬だけ現実の一端に触れた瞬間だったり、って言うとまたややこしくなりますね。
すいません、またあらぬ方向へ話が逸れてしまいました。

・・・・逆に考えると、危機的状況や恐怖を回避するためには、思考を、言語化を、諦めない事も大切なのだと思います。
すっごい変な話ですけど、強盗が侵入して、自分は扉の裏に隠れていたとして、その強盗が扉の傍に近づいてきた時、もう駄目だと思考を放棄して目をつぶるのか、どうやって戦うのかギリギリまで思考を諦めないのか、そばにある使えそうな武器を探すのか、といったようなことも。

え~と突き詰めると、現実とはキラキラとした美しいもの、というより、不安や恐怖を伴って迫って来るもの、なのかもしれないな、なんて事も思います。
言葉によって認識した瞬間にありのままの現実というのは変形を被る、とか。
でも言葉でしか認識できないのですから、ありのままの現実というのは認識のしようがない。

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