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あまりにも隠喩的な

2016年08月14日 09:43

人と人との間で、意味が確実に伝達されるコミュニケーションというのは、不可能ですよね、やっぱり。
多くの場合、相手は聞き取りはしたのだけれど真意は伝わらなかったりとか、誤解や曲解を伴ったりとか、言葉の裏を読もうと躍起になったりとか、究極的には闘争や混乱を引き起こしたりとか・・・・文脈を辛うじて共有していたとしても、こんな感じ。
ビジネス上は理性的論理的な情報は伝わる可能性が高いのですかね、業務上という文脈を一応は共有して、同じ方向を向いている訳ですから。
伝える方の問題、受け取る方の問題、どちらもあるのでしょうが。
ーーでも根本的には言葉の性質上の問題というのが一番大きいのでしょうかーー
あまりにもメタフォリカルな伝え方というのも、ちょっと狡猾さを感じてしまうというか、受け取る方の曲解を見越した上でなされているようにしか思えないケースもあって「あの時なんであんなこと言ったの?」と問い詰めれると「いや、そういう意味じゃないよ、〇〇な意味でいったんだよ、あなたなら分かると思ったんだけどな・・・・」というような都合のいい言い訳もありますし、どこまでも相手より上に立っていたいという思いから発せられる言葉である場合もない事もないですね。
受け取る方にしても、敢えて自分の都合のいいように曲解する、というのもありますしね。
言葉というのは隠喩的なものですし、もともと一つの言葉に一つの意味、と限定されているのなら、そしてその上で完璧にフレームを共有できるのなら、誤解は減るのかもしれないけれど。
全ての言葉や感情表現を記号に置き換えて、でもそれは膨大な数になるのだろうけれど、この記号にはこの言葉のこの意味、と完全に決めてしまえば、そしてその膨大な数の記号だけでやり取りすれば、でもそうなると人間の思考や認知の形態も少し動物みたいになってくるのか、変わってこざるをえなくなってしまうのか、でもなんとなくスマホアプリでも開発されればできなくもないような気もしなくもないというか(まあ不可能なのでしょうけど、人間が今のままではなくなっちゃいますから)・・・・・とりあえず記号のコミュニケーションが可能だったと仮定想像して・・・・・その上で尚、敢えて、どうしても誤解を恐れずに自分の言葉で伝えたいという情熱がある場合にのみ、記号を排して自分の言葉でコミュニケートする、とか。
そうなると、完璧な記号がデータベース化されているのにも関わらず、そこへのアクセスを拒否し、敢えて誤解をまねく恐れがある言葉でコミュニケートしようとしてくれている、リスクを恐れないこの人「自分の事を大切に思ってくれているのは間違いないようだ」という情熱のようなものは伝わりますね。
膨大な数の記号だけのコミュニケーション・・・・・暗号みたいな感じ?新たな言語みたいな感じ?翻訳しないで直接認識するには多くの学習が必要?伝わりやすいのでしょうけど、固有性は一切排除されてしまいそうですね。
うーん、今日もまた朝から出来もしないおかしな話をしてしまいました。
だから、本題に戻ると、というか本題も何もないのですが・・・・なんでしょう、コミュニケーションの時に一番大切なのは、情緒的同一化?感情を共有する事?
そうすれば多少は何か陽性のものが伝わる確率は上がるのかもしれないですね。

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