神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


おごりではなく当たり前の事として

2017年11月02日 10:10

溢れるパロールの場という経験は、僕らに様々な気付きをもたらしてくれる、再確認させてくれる。
先日話をしている中で・・・・・・何らかのスペシャリストが人から「何故それをするのか?」と問われる、その時なんと答えるか。
さまざなな最もらしい、時には謙虚な答えが返ってくる、それは人格者のような答え、人を感動納得させる事が可能な答え、今までさんざん苦労したおかげでやっと掴み取ったという体の答え、自分なりの気付き。
勿論それは本当の事、自分なりの本当の答えである事には違いない。
でももしその人物がその答え止まりで、その先にもう一歩突き進む事が出来ていないのだとしたら、そのもう一歩先が存在する事に気が付いていないのだとしたら、それは、その人物はいい人なのかもしれないが、100%頼る事はできない、頼りにはならない、依頼はできない。
依頼するにはその人物の強さを実感出来なければ無理、そんなような成熟した謙虚さを装っているだけのものに安心して任せる訳にはいかないという事実、一瞥のもと棄却するしかないという隠しきれない苛立ち。
何かを成している時、人から「何故それをするのか?」と問われる、その時に用意されている謙虚な答えのその奥には、謙虚さのその先には、断固たる自信や覚悟が堂々と鎮座していて欲しい、その自信や覚悟が不測の事態に敏速に対応し解決するのだし、なにがやってきても立ち向かう強さとか、折れない心とか、そういう類のものを生み出す。
「何故それをするのか?」を刺し止める答えは「何故って、だって俺だよ」とか「何故?だってそれは、私だから」おごりでもなんでもなく、最低でも、実力に裏付けられたこの程度の答えは聞かせてもらいたいところです、自分はそのものでしかない、という覚悟、それはアイデンティティなどという生ぬるいものとは一線を画す、もしそのものでいる事が出来ないのであれば生きる必要はないという程の認識、決意ではなくただ当たり前の事としてそのようにしか意識が及ばないさま、そのものである事だけが自分の意味。
ちょっと極端に書きました。

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