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お前は誰だ?

2018年02月24日 21:38

「お前は誰だ?」と聞かれた時、僕らはなんと答えるのでしょうか。
職業であったり、所属している共同体の一員とか、夢中になっている事であったり、誰々の夫とか妻とか子供とか、出自とか、自分に付けられている名前とか・・・・・・・聞かれた側の受け取り方によってそれぞれ、答えは違ってくるのでしょうけれど。
アイデンティティのようなものを口にするのかもしれませんが、しかしどうなのかな、浅い領域の話であればそれでもいいのかもしれないけれど。
「お前は誰だ?」と問われた時、対外的には無難にそんな様な解答をする事は僕も可能。
ただこれ、自分に問うてみた場合、自分で自分に「お前は誰だ?」と問うた時、正直に真摯に深く考えれば考えるほど答えに窮してしまう、なんと答えたらいいのかメランコリックに脱力してしまう。
職業は多くの場合、流れの中で今現在選択しているものに過ぎない、共同体や夢中になっている事がもしあったとしても、それも流れの中での出来事でしかない、家族や出自に関しては僕は全くピンとこない、というかそう言った安易な事実の枠外にこそ自分が誰なのかの答えがあるようにも思え。
単なる動物的身体として発生し、成長と共にさまざまな要素が付帯する中で自分という感覚が芽生える、自分という感覚が芽生えた後も、さまざまな要素が自分に付帯し続ける、職業や共同体や夢中な事もそう、流れの中で自分に付帯したものでしかない、それは選択といわれる行為でもある事は間違いないのですが、それでもやはり、状況や環境やそれまでの付帯物によって形成された意思のようなものによって選択された新たな付帯物に過ぎないように思う。
「お前は誰だ?」という自問自答に真摯に向き合い深く考えれば考えるほど、流れの中でいつの間にか自分に付帯した多くのものを引き剥がすしかない、それは単なる付帯物であって、本当の、本来の、生身の、自分の基盤なのか根底なのか、それらの付帯物に対して許可した、自分に付帯する事を許可した本来的な自分。
その本来的な自分は何を考え何を成したいと思っていたのか、という事を自分の経験してきた歴史を遥か遠くまで遡って考えようとしても、経験は必ず断絶する、切断個所に出会うしかない、それは言葉を話せるようになる前の自分、言語以前の経験でしかなかった自分が何らかの鍵を握っているのかと考えてみても、その言語以前の自分というのはただの、動物的自分、なんの思考もなかった頃の自分、思考以前の動物的自分が鍵を握っているなどと言う事は決してない、動物は刺激により遺伝子のスイッチが作動して行動するだけ、そこに人間的思考は存在していない。
そうやって思考の迷宮にハマり込みつつも「お前は誰だ?」という自問自答に対して開き直って堂々と「自分は・・・・・・・誰でも、ない」と答えるより他にないという、ある種のすがすがしさなのか、なんなのか。
「お前は誰だ?」・・・・・・「自分は、誰でもない、誰でもないからこそ、誰かになろうとしている」


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