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お彼岸に思う 快原理
2017年09月24日 08:34お彼岸の時期になると、大庭台墓園の前の二車線道路がかなり渋滞します。
僕らはゴルフ場の脇の急坂を通って裏門から入るので渋滞には嵌まらないで済むのですが。
お彼岸、彼岸、彼岸の時期になると「快原理の彼岸」を連想してしまいます、全然関係ないのですけれどね。
人間にとっての二つの快、その一、心的緊張を極限まで抑える事、これは行きつくところは無に帰すことにもつながる。
この古典を現代風にマイルドに変換すると、生存の文脈より実存の文脈が前景化してくるのか、社会的に無に帰す、社会的に生きていると認識されなくなる、何の役割も負わない中でなのか、一時的に全ての役割を放棄し、何のメッセージも発信せず、誰とも関わらず、社会的に誰からも認識されない中で、ただ、自分である事すらも放棄して漂う、観念の集合体でしかないものとして漂う、これは一時的であれば、かなり心的緊張を抑えることが可能て、結果的に快に接近する事が出来るようにも思います、長い期間であったり期間の定めのない中でだったりすると、それは逆に不安が湧き上がってきてしまうのでしょうけれど。
そしてもう一つの快、アンドロギュノス的一体感、男女分離前の完璧な状態・・・・・・これは今の時代はサブカルチャーの文脈に接近すれば、工夫次第でかなり満足できる状態に身を置く事も、出来ないでも無いような気がしなくもない・・・・・・・それは、お気に入りの萌え対象を所有する事によって。
二次元のままでの脳内変換でもいいのでしょうし、もしくは三次元に起こす手続きを経て所有してもいいのでしょうし、実在者に対して自分なりのキャラ化を施してもいいのでしょうし、あとはなんでしょうか、サイドストーリーとかも、この文脈においての所有の場合、もしかしたら日常という現実とは別のもっと理想的な場所で、リアルに所有する事ができるのかもしれない、所有する時そのリアルな場所こそが現実に昇華されるという、ただこれには多重見当識的な優れた才能が必要になるのでしょうが。
快原理の彼岸も、時代と共に変容しているように思えなくもない、という、これはただ僕がなんとなく実感している事でしかないのですけれど。
深層を暴きたてずに上手に生きてゆくには、、こういった究極的工夫という防衛もあってもいいのかな、と思います。
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