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こうあるべき
2016年03月18日 20:23今自分を規定している枠組みに窮屈さを感じていたとして。
ただそれを取り払ってしまえば、自由に、身軽になれるのかというと、瞬間的にはスッキリしたように感じる事はできると思いますが、すこし長いスパンでみると、必ずしもそうとも言えないのだと思います。
枠組みとは自分の意識の輪郭だとも言えるように思います、いくら窮屈だと感じているのだとしても、こうあるべき自分、というのもそうでしょうか。
もっと言えば、自分の意識の形に合っていないからこその窮屈な訳ですね。
で、いくら窮屈だからといって、その枠組みをいきなり取り払ってしまう事は、自分の意識の輪郭を保つ事が難しくなってしまう事にもつながるんじゃないでしょうか、輪郭とはこうあるべき自分、なのか。
規定やルールから離れたとたんに、一瞬の自由を感じたのちに、不安に襲われたりするのも、こんな理由もあるのかもしれません。
ーー仕事を辞めた時、少しの間自由になったように感じる、などというのもそうなのでしょうーー
だから、今の枠組みに窮屈さを感じているのなら、どういう枠組みなら自分の意識・思考・意思・想いにフィットさせる事が出来るのか、そこから考えてみるといいのかもしれません。
何の不自由もない100%満足できる枠組みで環境に適応できれば、それに越した事はないのでしょうが、まずは窮屈さをできるだけ軽減できる枠組みを設定してゆくのがいいのだと思います。
社会から自分に対する要求と自分自身が思っている自己表現の、落としどころを探ってゆく、みたいな事なのかな、と思います。
表現したい自分と、自分に対する社会からの期待の折衷点、と言った方がいいのか。
なんかえらく抽象的ですいません。
・・・・こっちの方がいいのかな。
社会からの要求によって規定されている今の自分の枠組みと言うんですかね、こうあるべき、みたいな事。
自分らしく自由に生き生きとするには、この枠組みを全て取り払ってしまえばいい、という訳ではないですね。
取り払うという事は、一切の社会から排除される事にも行き着いてしまいますし、身の置き場も不確かになって不安も増幅します、こうあるべき、という事によって社会の一構成員として成り立っているのだとしたら、たぶんそういうことなのでしょう。
だから、社会からの要求と自分自身の想いの、心地良い落としどころという事なのか、ギリギリの妥協点という事なのか、それは人それぞれの環境によって違うのでしょうが。
そういった着地点を探ってゆくのが、まずは大切なのかもしれません、第一歩として。
自分なりの想いからの、こうあるべき、を少しずつ作り上げていくといいのでしょうね。
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