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そしてもう一つの快
2017年09月10日 09:03心や無意識が感じる快、というのは一般的な意味で言われるところの快楽とは違う。
無意識にとっての快とは、心的なエネルギーを極力低く保つ事が可能な状態。
快楽というのは、心的なエネルギーは、心的な緊張は、高まります、どっと疲れたりもしますね。
その真逆の状態、何もしない状態、ただ精神がフワフワと拡散して漂っている状態、弛緩し、ぼんやりして何も思考していない、何も活動していない状態、生きているのか死んでいるのかすら定かではない状態、これも一つの快。
限りなく心的なエネルギーをゼロに抑える事、これは究極的には生を放棄する事にもつながってしまうのでしょうが、高まり続けたままの緊張の中では、それすらも一つの、無意識にとっての快。
それは倒錯の中で、原初の状態に自分が戻ろうとする欲求とも言えるのかもしれません、命を吹き込まれた身体としての僕ら、命は身体という容れ物の中で窮屈さを感覚する、身体から逃れ出る事はできない緊張と共に在る、これはある領域の倒錯の中で観念的に感じる事、有機体に対して無機物、無機物の状態、無の状態。
ただ、原初の快は二種類ある、もう一つの快としての原初の状態、それはギリシャ神話のアンドロギュノス、男女が一体となっていた状態、これがもう一つの快。
この状態と言うのは、心穏やかに、というのは低い心的緊張状態の中で穏やかに、肯定感に浸り満たされる事が出来る。
・・・・・・・・無機的状態への回帰という欲求を妨げるのは、たぶん、愛でしかない・・・・と言う事を書こうとして、妙に分かりづらい文章になってしまいました。
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