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それがあった所へ

2018年08月22日 10:23

生まれてきて、自分が初めて鏡を見てこれが自分であると認識するまでは、自分に身体の統一的感覚というのはない、鏡を見て初めて自分の身体輪郭を理解する、鏡を見て初めて、身体の原初的寸断状態から解放される、ひとつに統一された身体となる、そして自我が形成され始める準備。
だからその鏡の段階以前は統一感覚の無い言わば、寸断された身体というぐにゃぐにゃとした感覚でしかない。
僕は昔よくこの寸断された身体の夢を見ました、特に30代の頃。
どういう状況の時にその夢を見たかと言うと、現実的な生活、これは特に社会生活、だから仕事においてという事ですが、ある程度の成功が続いていて、あまり不安要素も見いだせずに、なんとなく満足して、まったりしている時、そんな時には決まってこの、寸断された身体の夢を見ました、というか無意識に見せつけられたと言った方がいいのかもしれませんけれど。
夢の中で自分は満足している、かなりリラックスして現状の自分に満足している「ああ、自分もやっとここまできたなあ」みたいな感慨に浸っている、しばらくのんびり過ごす事を自分に許可してもいる。
そんな時にいきなり思い出すのです、全身に鳥肌をたてて、髪の毛を逆立てて、血を逆流させて、昔住んいたという設定になっているかのような古ぼけた平屋、その平屋は家具は住んでいた時のままになっていて、埃だらけで、その押し入れの横にタンスがあって、そのタンスの引きだし中に僕は、今の自分として人生を旅立つ前に、その家で確実に、誰かを殺した、そしてその殺した人をタンスの奥にしまった、という事を思い出し、慌ててその家へ行き、記憶を頼りにタンスの奥を探る。
そこから一本の足が出てくる、僕はその足を手に取りなぜか「あっ、オレの足だ」と確信する、手に取って途方に暮れる、僕が殺したのは鏡の段階以前の自分・・・・・・僕らは皆、自我を形成し社会性を持ち始める時に、それ以前の単なる生命の塊でしかなかった自分のもとを抹消します、その自分のもとである生命の塊というのは我儘放題勝手放題、欲求を依存対象を使って満たすだけの未熟でしかない、だからこれは人として生きる為の準備でもある誰でも通過するしかないイベント、乳幼児心性のままでは生きられませんから・・・・・。
その足を手に取りながら、自分の人生の旅、この旅は、なぜ今のような場所に辿り着いてしまったのだろうか、どこで間違ってしまったのだろうか、この一本の足、寸断された身体の一部、自分がまだ寸断された身体でしかなかった時、本当はどのような想いを抱えていたのだろうか、身体の統一を実感した時、自分はどのような旅をしようと希望を思い描いたのだろうか、そんな事を夢の中で考え、途方に暮れる、今の場所に辿り着いてしまった事に絶望する、そして今とは違う、別の場所にゆこうと決心し希望を抱く、その一本の足を抱いてなぜかホッとする自分・・・・・・・・・という所で必ず目が覚めるという。
これは事あるごとに、数十回位は見ている夢。
自分の本質、自分の無意識からのメッセージ、これは原初に立ち返れという強いメッセージ、たぶん、ある程度の成功や満足に対して理性では納得しようとしていた、それは湧き上がる違和感を無理やり抑えつけるという工夫の元での納得、だからほんとは、今の自分、こんなのはほんとの自分じゃないと、実は分かっていた、自分のやりたかった事じゃないと、無意識の欲望と現実の自分に非常に大きなズレがあったのでしょう、だからこそ夢を通じて立ち返らせようと無意識がしていた、はじめからやり直せるわけではないけれど、はじめに立ち返れと。
こういう夢を何度も見て、そのしばらく後に転職だったり、職業変えであったり、そういう事をするようになります、それは今の自分になる前まで、だから十数年前まで続きました。
もうその夢は見ません、その一本の自分の足は、今は自分の胸にしまい込んでいるからだと思っています。
なんていいながら又この寸断された身体の夢を見てしまったらどうしましょう、かなりビビると思います、まさか職業変えしなくてはいけないとか、まあだから、常に立ち返ればいいのでしょう「それがあった所に、私自身がおもむくべきです」とラカンもいっていましたし。
これはオカルトでもなんでもなく、多少捻じ曲げてはいますが、ただの理論的な話です。


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