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それぞれのスタイル

2017年03月24日 21:51

僕らは、と言い切ってしまう事はやめておきます、だから少なくとも僕はという事で。
じゃあ・・・・・・僕は、常に答えの出ない中を、これは自分が答えを求め続けているのか、それとも達観?もしくは諦め?のもと、答えなど見出しようがない、と感覚的に思っているのか、それすらも定かではない中で、それでも何かを求めて生きている、そしてその何かと言うのは、具体的に何なのか、その解明を保留にしたまま生きている、ように思います。
一時的な、各小節ごとの、とりあえずの、その都度の自分を納得させる答えというのは、見い出せることはあるのですが、そういった小さな各物語の答えではなく、自分の人生という大きな物語りの答え、これは保留にするしかないようにも思え。
そもそも、大きな物語りの答えなどという壮大な事を言ってみても、答えを導き出すには問いがなくてはいけない訳で、その問いというのは何なのか。
多分、問い自体を立てる事に躊躇している。
問いを立てるという事は、その瞬間から答えを探し求め続けながら生きるという事なのでしょうから・・・・・と言う事は、立てられた問いの答えを探す、という生き方しかできない訳で、必然的に生き方が規定されてしまうようにも思える、ある種の恐怖。
生き方を自ら規定するというスタイルより、様々な方向へ自身が生成出来るように、それは同時に二つ三つの生き方すらも楽観的に楽しみながら、常に可能性に対応出来る準備だけは欠かさないように。
自身の大きな物語りの答えを求めながら生きるには、自身に対する問いを立てる必要があって、問いを立てた瞬間に生き方が規定される、それは可能性を閉ざす事であり、自身の生をちりばめる行為からの撤退。
多分、そうやって生き続けた終末の辺りに差し掛かった時点のどこかで初めて、自分はどういう問いを立てるべきだったのか、事後的に何となく見えてくるもののように思います、そしてそれは、自分が生きてきた道程をただ単に肯定し、意味を与える為に、終末の現状に満足を与える事が出来るような問いを、無意識的に立てるのでしょう。
・・・・・・・あまりにも観念的な書き方になってしまいました、そして穴だらけの書き方ですみません、たまにこういう訳の分からない事を書きたくなってしまいます。
問いを立てて、一途に生きるというスタイル、これはとても大きな勇気と覚悟が必要な事なのだと思いますし、そうやって生きている方を、僕は心から尊敬しています。

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