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ただ、戦闘を続ける為だけに。

2018年01月16日 20:58

年齢や経験と共に段々と、徐々に、しかしうっすらと、見えてくるものがない訳ではない、という事は男同士で話していると感じます。
同世代とか、そうですね、40代50代とか「ここまで何となく生きてきて結局、自分らは、いったい何をしたいのか」。
何をしたいとか、何か目標や理想を掲げてそこに突き進むとか、それは単なる手段でしかないのではないだろうか、という話に落ち着く。
ではそれは、何の為の手段なのか、これはそう、戦う為の手段、社会的立場とか、どちらが又は誰がより大きなファルスを幻想的ではあるにしろ所有しているかとか、力比べ、知恵比べ、度量比べ、これは金銭の文脈は関係ない、だから金を持っているかどうかという事は全くジャッジの枠外、どちらがというか誰が強いのかとか、とにかく戦闘していたい、でもただ戦闘するのは無為なようにも思え、だから大義を、目標とか理想とか、そこに向かう為、自己実現、というような体を装いつつ、ただ単に、今この瞬間も次の瞬間も戦闘し続けていたいが為の、そしてその欲望を小綺麗な、社会に流通している言葉で覆い隠す。
これはそう、若い頃のヤンキー性・・・・・じゃないな、昔はツッパリとかですね、そんなような心性から一切成長していないのではないかと、ちょっと鳥肌も立ってしまいますが、子供の時分の身体的な戦闘から法や規律規定の中での、知や度量による戦闘にすり替わっただけでしかない、こういうのは世代によって、成人する以前にどういう時代を過ごしてきたかにもよるのでしょうけれど。
目標や理想という自分なりの大義を掲げ、ただ、その大義が果たせるかどうかなどという小さな事は実はどうでもよくて、掲げた自分なりの大義を振りかざしながら、ただこの瞬間瞬間を社会的立場の中で戦闘に費やしたいだけでしかない、要は社会規範の中でルールの中で戦闘を続ける大義名分があれば、それは何でもいい訳です。
そうなるとあれですね、欲望する機械、戦闘機械、社会的戦闘機械、知により組替わり続ける実存的戦闘機械・・・・・・・じゃないな、戦闘はもしかしたら欲望ではなくて衝動的な、欲求、本能ではなく根源的な欲求。
戦闘という欲求が存在して、そのある種の暴力性を覆い隠すために、目標とか自分なりの理想とか、そんなようなものがある、その理想や目標だけに目を向ければ、そこにいるのは一生懸命な、充実している理性的社会的自分、ああそうだ、覆い隠されている暴力性すらも何かを覆い隠している、何を覆い隠しているのか、空虚、自分の意味のなさという僕らの根源的な問題を覆い隠している、古典的な転換型ヒステリーでもあるかのようにも思え、本質として暴力性が強い場合は特にこういう流れになるでしょうか。
空虚を覆い隠す、自分を突き動かすもの、ただ戦闘し続けていたい欲求の塊でしかない、ある意味動物的な自分。
生きる事・・・・・・ただ戦う事、そこで疲れる、還る、また戦う、社会的規律内で戦闘し続ける事だけが生きている実感・・・・・・みたいな人も、いない事はないように思います、境界例的な心性にも親和性があるように思ってしまいますが、ただこれは、楽しい、間違いなく。
お風呂とか外気とかもそうなのでしょうけれど、ぬるいと僕らはふやけますしね。
思いつくままに書いたので支離滅裂ですみません。


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