神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


ただ在る

2014年12月21日 10:18

どこか、体に全く負担のかからないような、穏やかな気候の土地で。
縁側のついた、古い木造建築の家に。
身体を維持するのに必要な、最低限の食糧と水を持ち込み。
朝、日の出とともに目を覚まし。
食事の時間以外は、縁側でうっすらと何かを思考し。
あくまでも、うっすらと思考し、決して自らの欲望を持つことなく。
日が暮れれば、月夜にまた、うっすらと思考し。
そして就寝する。
一切の心的緊張はなく。
月日はとても優しく、静かに流れ。
そしてふと気が付くと、語らいの場から遠く離れたところで。
すでに、生きているのか、死んでいるのかさえ、気にかける事もなく。
ただひたすら、なんの感情も持たずに。
うっすらと、思考し続けている・・・。

え~と、なんなんでしょうか?これ。
ぼ~っと書いていたらこんなのが出てきちゃいました。
これは、無理ですよね。
もう、既に後半には人間じゃなくなっちゃってるし。
でも、3か月間位の期間限定でなら、経験してみたいような気がしなくもないです。
うっすらとした思考と言うのは、なんというか、能動的に何かを考えるのではなく、精神のず~っと奥の方から・・・、う~ん、例えるなら井戸の底からあぶくが一つ、また一つと上がってくるのを、ぼ~っと眺め、そのあぶくに焦点の合わない視線を送る。
といったような感じでしょうか。
こんなような状態って、どうなんでしょうか、楽しいんでしょうか?
あっ、でも何の感情も持たないって言っているので、喜怒哀楽を超えたところにあるんでしょうね。
楽しくもなく、苦しくもなく、ただ在る。
といったような。
井戸の底の方から上がってくる、あぶくとは、どんなものなんでしょうか?
最初のうちは、過去の経験だったり、その経験に伴っていたかもしれない感情だったり。
そして、上がってくるあぶくが尽きたら、その後はどうなるんでしょう。
縁側から見える景色が刺激となって、何かが想起されるのか。
それとも、今となってはもう、かつては自分のものだったと断言できるのかどうかも、定かではなくなった意識のようなものに、白い靄がかかったような状態が続くのでしょうか。
これって結局、生を意識せずに、ただ在るという事が、孤独と静寂のイメージにぴったりで、でも実際に可能なのかどうか、という事を言いたいんじゃないでしょうか?
そんなこと言ってどうなるんだ、と自分でも思いますけど。

人によっては、始めてすぐ、もう3日目位に社会性を回復する事を渇望しだすのかもしれませんね。


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