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ため息という旋律

2016年03月22日 20:54

誰でも、常に旋律を奏でているのでしょう、普段忙しく立ち回っている時には殆ど気にかけませんが。
ふとした瞬間、その旋律に耳を傾けてしまう事があります。
耳を澄ましてみると、それが聞こえてくる場所は、心の奥の方からであったり、もしくはあえて意識から隔離して自分で見ないようにしている所からであったり。
言葉ではなく漠然としたものとしての、美しい旋律、悲しい旋律、優しく暖かな旋律。
奥に押し込めていたり、見ないようにしているということは、それは悲しい旋律ということなのかもしれないですね。
自分の内界で奏でているその旋律に同期する外界からの旋律ーーこれは実際の音楽であったり、人のぬくもりであったりする訳ですがーーによって、自身が奏でている旋律を、優しく迎えに行ってあげられるといいですね。
そして、旋律の元となっていた想いも、いつか自分の一部として受容してあげられるといいです。
そういう部分の根底にあるのは、寂しさであったり、孤独であったり、悲しみであったり、なにかそういったような、儚さや脆さを兼ね備えた、最終的には美しくもあるものであるように思います。

又、場合によっては、抑え込んでいるものや、見ないように隔離しているものは、怒りである事もありますね。
目を向けたとたんに、そのものが迫ってくるのですから、やっぱり見たくはなかったりもします。
怒りは、特に旋律を奏でないようにも思います、これはたぶん激しすぎて奏でている状況ではないのか、もしくはその根底や中心で、奏でてはいるのですが、かき消されてしまうのか。
その怒りを解き放った時、最初は微かに、そして安堵と共に徐々にハッキリと、聞こえてくる旋律があります。
それはとても美しく儚げな、孤独や悲しみ、不安という脆さを伴った、庇護を必要とするような弱々しい旋律です。
怒りを解き放った後に残るのは、拒絶や否定・批判され続けてきた事に対する悲しみの旋律という事なのでしょう。
少し時間はかかるかもしれませんが、迎えに行ってあげられるといいです。

悲しみを受容し、悲しみを身をもって知ることが出来れば、同じ思いをして孤独に耐えている人に、優しく手を差し伸べることもできるでしょうし。
そして、そうする事で自分自身ももっと優しくなれて、プライドも保つ事が出来るのでしょう。
大きな怒りとは、大きな優しさの素になるものなのかもしれませんね。

僕がよく耳を傾ける旋律は、リストのため息でしょうか、まあ、これは僕の主観でしかないのですが。

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