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ちょいちょいコケる人
2016年06月09日 09:24完璧にそつなく、なんでもこなす人、隙のない人・・・・・憧れの存在になれますね、みんなのお手本、尊敬の対象にもなります。
一生懸命頑張るんだけどちょいちょいコケる人、しっかりしている事はしているんだけど何処か残念で、でも憎めない人・・・・・親近感が湧きます、あんまりとっ散らかりすぎるとまずいとは思いますが。
なにかちょっとヌケている人、天然な人、欠けている人、こういう人には何故か親近感を抱きます、なんとなく安心して近づけるようにも思ってしまうんじゃないでしょうか。
表面的には、相手の欠如した部分を目の当たりにして、自分と変わらないと思えて近づきやすい、と言う事なんでしょうね。
・・・・・心の中に自分が産まれてから今日までの歴史・経験・感情の全てがが言葉として詰まっているとして。
人は誰でも、心に根本的に欠けている部分を持っていますよね。
それは、物心つく前の自分がどういう自分だったのかという、思い出しようのない記憶(=欠如)であったり、言葉を話すようになって社会化される以前の万能感に満ちたただの生命のかたまりでしかなかった今となっては懐かしい自分の状態であったり(この部分ってもう2度と取り戻す事の出来ない、遠く過ぎ去った、そして楽しいだけだったノスタルジックな部分ですね、その後社会的存在として生まれ直すとも言えると思うのですが)、あと、生まれてきた理由とか、自分とは何者なのかとか、どうしてこの身体に「自分である」などという意識が芽生えたのだろうとか、そんなような哲学的な事も考えると、どこにも答えは用意されていない訳ですよね、だから、自分で自分に意味を与え続けなくてはならなかったりもして・・・、そういう、自分の事なのに自分で自分の全てを語りつくす事ができないといった、欠けた部分が根本にありますね僕らは、これは自分では原因の分からない不安のもとにもなるのでしょうが。
ーー自分の事なのに、それを自分で説明する言葉の部分が欠けているーー
すいません、ちょっと話が逸れました、だから、自分の心の中の欠けた部分、これは勿論目には見えない訳ですが自分だけではなくてすべての人がそうですね、それを相手の目に見える欠けた部分(コケたり、ヌケてたり、残念な部分)に、これは投射するというか、そこめがけて入り込みたくなるというか、欲望するというか、まあ、自分の目に見えない欠けた部分を、相手が目に見える形で表現してくれて、すごくホッとして親近感を抱くということかな、見える見えないの違いはありますけど、どちらも欠けているという事には変わりはないのですから、相手の心の欠けた部分は見えようがないですから、それを相手が身体で表現してくれると安心感が芽生えるような。
え~と、何の話だったかな、分かりやすく書こうと思ってたんですけど、やっっぱり話がややこしくなりました。
だから、みんな心に欠けた部分を持っていて、それは目に見えない不安な部分なんだけど、しっかりしてそうでコケる人を見ると、自分の中の目に見えない欠如と、目の前でわざわざ目に見えるように表現してくれたその人の欠如が同期して、ホッとして親近感が湧く、的な事でしょうか。
・・・・・僕自身も相当の欠如を意識していますけどね、まあみんなそうなんでしょう。
考え方の一つとしてという事で、もっとも、考える必要もない事、とも言えるのかもしれませんが。
人は誰でも心に欠けた部分を持っていて、それが不安で、だから実際欠けた行動をする人を見ると、自己愛を投射しやすくて親近感を抱く、という事でしょうか。
ややこしいダラダラとした説明ですみません、絵に描くと分かりやすいんですけど。
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