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なりたい自分、という難問。
2017年07月01日 08:267月、あろうことか、今年も半分が過ぎ去った訳で、時間が過ぎてゆく速さを悪寒と共に実感するたび、思い出したように「自分はどう生きるべきか」などという哲学的な思考に自分を追いやってしまう。
まあ、それはいいです、誰しも時間には抗えないのだし、過ぎてゆく時の中に自分自身を投げ込むしかないのだし。
時というのは永遠なのかもしれないですけれど、それもどうなのかな、いつかは万物にとっての時、というものにすらも終末は来るのかもしれないし、まあそんな事はどうなるのか分からないし、時が永遠であったとしてもそうではなかったとしても、それは個人個人には関係ない、僕らに大切なのは、僕らが持っているそれぞれの時というのは、間違いなく有限であるという事、それは多分、100年にも満たない「明けましておめでとう」と、あと数十回口しただけで終了してしまうような、永遠から見た時には、刹那でしかない有限。
その刹那でしかない有限を、どう生きるのか、「なりたい自分」というものをステレオタイプに設定して、わき目も振らず邁進するという生き方、ただこれは、設定のタイミングが非常に難しい、学生時代に設定して、その目標に向かって学生生活を充実させて、なりたい自分を実現する事が出来る企業に就職を果たす。
一度設定し邁進し始めたら、あくまでも一途にその道を進み続けるのが理想なのか、中途半端に方向転換したらそれまでの努力も無駄になってしまうのか、もしくはそこはやはり、努力したことは決して無駄にはならないとナルシシズムのもと言い聞かされ、それに感動納得した上で方向転換するのか。
なりたい自分の設定・・・・・目標に向かってわき目もふらず・・・・・その道程で出会った楽しいものや一瞬の興味の対象を取りこぼし続ける日々。
ああ、すいません、イヤな話になってしまいました。
ただ、ひとつだけ思うのは、なりたい自分というものは、ある程度の年月のもとで、さまざまな経験を重ねた上でないと、なかなか見いだせるものではないように思います。
実際に社会に出てから発見する事もあるでしょうし、結婚を期にとか、子育てが一段落したのを期にとか、中には早期退職を期にとか、さまざまな状況の変化の中で自然と見出される場合もあるのでしょうし。
そうですね、自然と見出すのと、強制的に見出そうとするのでは全く違うのでしょうね。
もし僕らが学生の時分に「なりたい自分になる」という言葉が流通していたとして、親や教師からどういう自分になりたいか選択を迫られたとしたら、たぶん、世間体や親の顔色も考慮に入れながら、無理やり何らかのなりたい自分をひねり出し、そしてひねり出したものについて承認を受けてしまった以上、もしかしたら自分をだましだまし、空虚感と共に対応し続けたのかもしれません。
自然と自分の内から湧き上がってくる「なりたい自分」それが一番いいのだろうし、というかそれだけが本物なのだろうから、それに早いも遅いもない。
自分の人生が楽しく彩られるのは、それからなんじゃないでしょうか、彩りというのはあくまでも事後的に感じられるものであって、なりたい自分に向かっている今の自分から、なりたい自分がまだ見つかっていなかった頃の自分を振り返った場合にのみ、昔の自分が無味乾燥に思える、色あせて見える・・・・・・では本当に昔の自分が無味乾燥だったのかと言うと、そういう訳でもなくて、その時はその時で、それなりに何かを楽しみながら生きていた。
ただ、自分自身が今の自分の方が気にいっているから、そう見えるのですね。
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