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はらわたが煮えくり返る
2018年04月05日 11:28嗜癖としての依存者がターゲットに対して依存を向ける時、あの手この手を使う、それは計算とか理論とかそういう知に基づいた仕方でではなく、ただの野生の感覚にも通じる無意識的自己防衛という一見理解不能な浅はかさにおいて。
まずはかわいそうな自分や性的自分を提出する、しばらくの間はそれは機能しますね、相手の同情心や性欲を煽る訳ですから、それを刺し向けられたターゲットは多くの場合、性欲の効果として同情が愛情に移行する、愛情というよりは性愛、性に移行する、そして愛したように感じる事が出来た相手を支え包み見込み引き上げようとする・・・・・・・これはまずもって徒労に終わる訳ですけれど、そもそも心地がいいから依存するのであって、相手に支えられつつそこから成長してしまっては依存自体が叶わなくなるという、依存者にとっての本末転倒。
そんな不毛なあまり長くない期間を経て、ターゲットも徐々に気が付く場合もある、これは対等な関係なのだろうか、これは付き合っているという事なのだろうか、自分は利用されているだけではないのか、ほんとは自分じゃなくても誰でもよかったんじゃないだろうか、そもそもこれは愛なのだろうか、疲弊の中で依存者に対して時々冷たい態度を見せてもしまう。
依存者は相手の態度や情動の変化に敏感ですから、そして非常にずれた形で自分なりに妄想的に理解する事しかできない、丁寧に説明しても何も言葉は通じない、何故そういった理解になるのか、完璧な他者。
とにかく感情で動きますね、もっと言えば感情でしか動けない、だからこそ浅はかに見えて、距離を置いて客観視した時には侮蔑の対象に成り下がるしかなかったりもする幼稚さ、そしてその幼稚さを放っておけない可愛らしさと勘違いしていた自分にはたと気が付く。
相手の態度にほんの少しの変化を敏感に察知した時、依存者は慌てて情緒的交流を回復しようとするんじゃないでしょうか、メール・・・・・というかライン、か。
ラインで出来る限りの長文を10連発立て続けにとか、読んでいて吐きそうになったという人も実際にいますけどね、あとは頭痛や動悸や過呼吸や不眠。
依存者の目的は、相手と情緒的な交流を回復する事、それは手段としては怒らせても何をしても回復するという、自分に課した唯一のミッション、怒りも情緒の一つですからね、とにかく理性的論理的で冷たく感じるターゲットを感情の場に引きずり下ろせばいい、そのあとは依存者の支離滅裂な感情の波に相手を呑み込めばどうにでもなる訳ですから。
依存者がターゲットを怒らせる、ターゲットは依存者にキレる、依存者は逆ギレしつつも野生としてのタイミングで泣き落としにかかる、自分がどんなに辛かったか、どんなにかわいそうかをアピールする事は決して忘れずに、ターゲットが根負けして冷静になってくる、近視眼的密室で密着で、もしかしたら悪いのは自分なのかと感じ始める、それを見計らって依存者はさらに情緒的侵入を試みる。
断ち切らないとずるずる行くしかないのですねこれは、もしくは依存者が次の目新しいターゲットを捕獲すると同時にいとも簡単にあっさりと乗り換えてくれるまで耐えるのか。
ターゲットにされていた人の中に最後に芽生える感情、それは間違いなく憎悪でしかない、そして人によっては殺意すら混在する憎しみは数年で消えればいい方、いつまでたっても事あるごとに思い出し、はらわたが煮えくり返る事は間違いない。
カウンセリングの文脈において、取り返しのつかない事というのはあまり存在しない、事後的に意味付けが可能な事がほとんどなのだと思います、しかしこれだけは例外、後から振り返った時その経験してしまった無意味という事実は、空白でしかない、自分の人生の中の空白期間は出来るなら、短ければ短いほどいいのだと思います。
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