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エクリチュール

2017年01月28日 09:16

母に頼まれた買い物をしに富澤商店に行った時、いきなり目に飛び込んできた小麦粉「エクリチュール」・・・・・名前に惹かれて、というかエクリチュールなどという名称を目にした瞬間に解離して、つい衝動買いしてしまいました、一個30円で3グラム入っているドライイーストと共に。
久しぶりにパンを作る事しか頭になかったのですが、家に帰って気が付いたのだけれど、実はこれ薄力粉だったという。
まあしょうがないから、ショートブレッドにでもすればいいかな、とも思いますが。
エクリチュール・・・・フランス語で文字とか書かれたものとか、そんなような意味ですね。
なぜ小麦粉にそんな小洒落た名前が付いたのか、というのは置いといて。
文字とか書かれたものというのは、書き手の想いがそのままストレートに読み手に伝わるのかというと、決してそんな事はないですね。
伝えようとすればするほど、それはポエジーに振れ過ぎてしまったり、厳格な言語の戯れに陥ってしまったり。
・・・・そして・・・書かれたものは、読み手という存在を要請するしかない訳で、それは不可欠ですね。
読み手がその書かれたものを認識するという事なしには、書かれたものは存在していないことにも等しい。
これは、あれですかね、人が自分以外の人に存在を認識される事によって初めて、存在している事になる、みたいな構図と同じようなものなのか。
あ、すいません、話が逸れました、書かれたものというのは、読み手が読み手のフレームを通して読解するのでしょうから、それは書き手の想いがストレートに伝わるという事ではなくて、読み手なりの解釈で読む。
だから、書かれたものを読むという事は、その文字の連なりに、読み手が自分の想いを映し出す、単なる投射みたいな事、そしてそれこそが大切な事。
走れメロス、人間失格、星の王子さま・・・・・・なんでもいいですけど、子供の頃に読書感想文を書く為に読んだ時と、大人になってから読んだ時の印象というのは、全く違いますしね。
大人になってからでも、経験や学習を重ねるごとに、年齢を重ねるごとに、同じ文字を読んだ時の感想や解釈というのは、どんどん変わってゆきますしね。
書き手というのは、誰にどのように伝わるのかという事を考えた時、不安に苛まれたりもするのでしょうか、これは書かれたもの全てに当てはまる事だと思います。
そんな事に想いが及ぶ時、じゃあ特に、文学やエッセイというのは、素材の提供であればいいのかとか、だから、考えるための刺激とかベースとか。
読んだ時の感想というのは、一人一人全然違いますしね、同じようには解釈されないし、そこには書き手の意図が汲み取られているのか、いないのか。
でも書き手は自分の想いはとりあえず保留にしてでも、ただ、何か感じてもらえれば、読み手に情動の変化が起これば、それで満足なのか・・・・・どうなんですかね。

 

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