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エヴァ世代ではないのですが・・・・・・

2017年09月19日 09:14

ここのところ、高橋洋子さんが透明感のある声で「残酷な天使のテーゼ」を歌っているのを目にする機会が何度かありました。
その時の自分の心持ちによっては、不用意に耳にすると、そして迂闊にもつい聞き入ってしまうと、泣きそうになる、強力な転移のもと引き戻されてしまう、しかしそれは心地の良い郷愁を伴っている。
 別に僕はエヴァ世代ではないし、リアルタイムで見ていた訳でもないのですけれど、しかし、いいものはいい。
自身の潜在性に翻弄され、訳も分からずに境界例的にアクティングアウトを繰り返していただけの時期、自分は何者になるのか、自分のどこかをのぞき込み暴きたてたいような衝動にかられながらも、今一つ勇気が持てずに、ただ、今のまま不安や空虚を心地よい心的緊張と弛緩を繰り返し続ける中で漂い続けていたいというおぼろげな想い。
いつかは自分を定義しなくてはいけない、でもそれはもう少し今の慣れ親しんだ苦しくもあり、しかし満たされていないわけでもない自身の在りようを、盲目的に引きのばす努力の効果としてのモラトリアムでしかないと分かっていながらも、出来る限り漂っていたい、いつか外圧によってそのように在る事が不可能になる時までは。
・・・・・・本来の意味するところとは全く違いますけれど、僕はこういう青年期の一時期の自分にリンクしてしまいます、ニュアンス的なものなのかなとは思いますが、曲や歌声が発するアウラ。
社会性を明確にする以前の自分、何者でもない潜在性の塊でしかなかった頃の自分、本当の意味で肚をくくる前の自分、どこに行こうかと夢想が可能だった一時期、しかし何処かに行こうと決意する勇気にまだ欠けていた一時期・・・・・・・こういう場所に自分が立ち戻る事というのは、今の自分を、自分の歩いてきた道を確認する事にもつながりますしね。
そして、その元の場所がとても恋しくなり、泣きそうにもなります、何歳になっても、どんなに経験を積み重ねても、事あるごとに随時自分が立ち返り確認を怠らないようにしなくてはならない場所。
透明感のある歌声に包まれ精神が拡散する時、ノスタルジックに病む、しかしその場所は心地の良い場所、心地の良い場所で、嫌な感じではない病み方をする、それは、何かを洗い流し、何かを蓄える為に、心地よく病む。
ちょっと、本来の世界観からはずれているのでしょうが、僕にとっての残酷な天使のテーゼという曲は、こんなイメージがあります。

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