神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


コミュニケーション機械

2021年04月02日 20:06

キャラと言ってしまっては少しニュアンスが違うと思うのです、キャラというのはメタの自分もしくは俯瞰的自分がある程度は冷静さを保つ中で器用に操作されるものであり、そこにはシニカルが居座っている。
シニカルである事と全力で今を生きるという事はやはり相容れないものなのでしょうから、やはり自分の生を喜怒哀楽のもとで味わい続ける為には没入が必要、時間の流れの中にどっぷり浸かるという作法が必要。
そこで持ち出されるのがインターフェースなのか、無意識という言語の混沌から自分が参入している様々な環境にいる人々と関係する為に、その本来の自分である無意識が自分の代表として提出してくる、インターフェース。
ただ、そうなってしまうと自我というのはその様々なインターフェースを集積したものという事になってしまって、そう決めつけたとたんに決定的な何かを取りこぼしてしまうような焦燥感に苛まれる。
物理的にであったり数学的にであったり、要は科学と言っていいのかもしれませんが、なにかそういうものに拠ってナルシシズムの賜物である自分の自我を単純化してしまう態度、これは事実確認的文脈とポエムが全く馴染まないという事実と同じであり、やはりそこは行為遂行的に捏造して超越的自己という所に着地した方が喜びを感覚しやすい。
そこで持ちだされるのが環境により自動的に分裂した複数の自我、今風に言えばモジュール化された自己とか、なにかそんなようなものなのでしょうけれど。
分裂した自我、自分が参入しているそれぞれの環境に適合するように無意識的自動的に生成されたコンプレクスの一部、自分の無意識を構成している無数の要素のいくらかをコミュニケーション機械として自動的に組み上げて自分を代表象させるという、今を生きる為の自然体での工夫・・・・・・・・・自分というのは環境に呼応するように、いくらでも分裂してゆくという多分、事実。
コミュニケーション機械をより大きくそしてより多く組み上げる為には沢山の経験や知という、無意識内で渦巻く言語が必要。


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