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データベースが取りこぼすもの

2017年03月01日 09:08

情動の変化、意識の変容、思考の流れ、様々な意志、想起される想い等々・・・・・・・自分に関して認識できる多くの事。
こういったものは、それなりに修練を重ねれば、明確に言語化する事もある程度は可能ですね、ある程度は、だから全てを言語化というのはやはり難しいのでしょうが。
それらをデータベース化したとして、だから「自分データベース」のようなものを作ったとして。
それは自分の痕跡なのかとか、それは自分の・・・・心と一般的に言われるようなものを表しているのかというと、なんかそれは心ではないし、なんとなく自分でもないようにも思えてしまう。
客観視した時点で、それはもう既に自分ではないような、なにか他人事であるかのような。
データベース化して、そこで言い表さなかった残余、自分の中に残ってしまった部分、しかし残っていると認識できていない部分、何故データベースに記述されたような思考が生み出されたのかという部分・・・・・・・だからデータベースのような結果に至った・・・・・・原因。
この原因こそが自分であり、自分の心と表現してもいい部分。
情動の変化や思考の変化、意識の移り変わりや表明した意思、それに至った原因・・・・・・・もしくは、アイデンティティ的なものを形成した原因、なぜそう言うアイデンティティを持つの至ったのかという。
その原因というのは何なのか、いくら考えても分からない部分。
分からないのであれば、それは空白の部分なのか、そもそもそんなものはファンタジーでしかなくて本当は存在しないのか、もしくは思いだす事は決してかなわない、心的外傷・・・・・・あまりにも強度のある、トラウマ。
記述を免れた部分、自分の思考の及ばない部分、もし明確になってしまったら平常心を保てなくなるのかもしれない部分、そこが外傷として隠蔽されているのか、もしくは空白、空虚なのか。
心というのは、記述可能な、認識可能な自分の部分にではなく、言い表せない部分にのみ存在する(もしくは存在しない)ように思えてしまう事もあります。
僕らは、心というものを強制的に設定して、それに責任を負わせることなしには、上手に生きられないですしね。
何故か、自分というのは客観視した時点で、それはもう自分ではなくなっていて、実感も薄れ、他人事であるかのように感じてしまいます・・・・・主観で見るから、自分というフレームを設定して自分に対峙するから、自分の事であると認識できるかのようで。
心というのは、データベースが取りこぼすもの、様々な情動の変化に至る原因・・・・・・・という、意味不明な独り言です。

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