神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


ニューロティックな主体

2017年05月31日 20:42

ドイツ語のノイローゼから、より深い精神的不具合の領域まで、一般的には人は誰でも神経症的、普通にしているように見えたとしても、神経症的、ニューロティックであり・・・・・ノイローゼ的、というのは自明なのかもしれません。
突き詰めれば、極端に言えば、極北において、カウンセラーなどというものは、ああ、一般論化してしまうと語弊があるので、じゃあ、僕だけに関してはという事にします、はい、すみません、僕だけに関してはと言い直します。
僕だけに関して・・・・・内省する自問自答するという事は、間違いなくニューロティックでありノイローゼの領域に片足を、これは常に突っ込んでいる状態でもあり、そんな自分を楽しみながら日々を送っているのかもしれません、楽しみながらというよりは、向き合っている自分という生の実感と共にとか、一つの充実と共にとか、実感しているものを味わいつつ充実感を感じている状態。
アスペっぽさ、多動的落ち着きのなさ、強迫、AC,ポップにメランコリックなのか鬱なのか、たまにはマニック、自傷、他罰、ナルシシック、攻撃性、ボーダー、スキゾ、パラノ、循環気質や分裂気質・・・・・・・こういうものだってチェックすれば身に覚えのある事ばかりだし、どれにだって当てはまる、特に分裂に親和性があるのは自分でも自覚的。
まあ、年齢と共にこういう状態というのも緩和されてもくる訳ですが、たぶんこういう事に当てはまってしまう自分というものに自覚的であって、理論武装した上でメタの視点をとり続け、だからこそお客さんの話が腑に落ちる訳だし、お客さんが話す殆どの話というのは自分にも身に覚えのある話ばかりで、それはもう共感せずにはいられない・・・・・という事は、なんでしょうか、元ヤンとかヤンキーあがり、ならぬ、メンヘラあがり・・・・とか、というのは冗談ですけど、これは軽く精神を病んでいる、というほどの意味で、内省していれば、それは傍からは病んでいるように見えるのでしょうし、ノイローゼ的というのが今様のメンヘラに置き換えられているのだとしたら、それは誰だってメンヘラの資質を持っているという事にもなってしまう、メンヘラというのはポップな言葉ですしより多くを包括するかのよう、そこには嗜癖としての依存、それも他者に対する極度の依存も含まれているのか・・・・・これは別の領域のように思う、僕はこの嗜癖としての他者への暴力的とも言える依存だけに関しては嫌悪や攻撃心しか芽生えませんが、これは子供の頃の体験からなのだと自覚しています、ほんと依存するためにはあの手この手で人を追い込もうとする薄気味の悪さだけには吐き気と怒りしか覚えない、追い込んでいるうちにいつの間にか形勢が逆転されて自分の方が分が悪くなるとコロッと態度を変える姑息さにも腹が立ちますしね、実際そういう事をされて悩んでカウンセリングにお越しになる方もいらっしゃいますし、そうだ、でも、ただかまって欲しい人、普通のメンヘラは別です、普通のメンヘラであれば、それは自分を顧みている、自分に対峙している主体であるのですから、それは手助けが必要な存在、だからそれは区別しなくてはいけない。
「なんでカウンセラーになったんですか?」みたいな事も世間話の中で聞かれるのですが、俗に言う・・・・過去において自分が抱えた精神的な症状を努力によって克服した経験という美談、というのは僕の場合は一切持ち合わせておりませんし、もし仮にそういった物語りがあったとしてもそれを美しく装飾して語ろうとは思わないし、もし語るのであればただ淡々ともしくは面白おかしく経験だけを話す、それが相手の為になるのであればですけれどね。
何の為に、カウンセラー側が、美しく装飾してナルシシックに物語るのか、という事に想いが及んだ時、強い嫌悪が芽生えるだけ。
そうですね、なんか「メンヘラあがり」という言葉は妙にしっくりくる、本当にそんな様な気がしても来ました、ていうかあがってなかったりして、一生自覚はしつづけるものの、なんとなくこのままとか、もしかしたらそういう自分の方が受け入れやすいかもしれません、でも、ニューロティックな主体という表現の方がいいのかな、ノイローゼというのも今の時代はビンとこないのでしょうしね、じゃあ、ニューロティックな主体にします。
お客さんと話す時に必要なのは、第一にメタの視点、理解し腑に落ちた中でのメタの視点、思い込んではいけないし、経験や感情を押し付けてはいけないし、直面している現実とかけ離れたマニュアルとは別の領域の出来事だし、突き進んだり引っ張ったりしてはいけないし、冷た過ぎずアツ過ぎず、やってはいけない有害な事はいくらでもある訳だし、入れ込み過ぎて盲目的にならない為にもメタの視点だけは欠かせないのだと思います。
全ての問題を克服した、理想的にバランスのいい人、バランスのいい自我・・・・・・これは想像するに、人間ではない存在なのだと思います・・・・・そのように演じる事は可能なのかもしれませんが、それは、すがる存在という事なのでしょうし、そこでは対等な人間関係の中で直面している問題に取り組む姿勢というのは表しようがない、ただただすがる存在に対して依存し続けるだけという不毛。
バランスの悪さすらも楽しめる、これも精神の健康を考える上で大切な事。
きっと単純に言えば僕は、その人が抱えている想いについて本気で一緒に考えさせてもらう事が自分の生きている意味、というだけの事なのだと思います、その為にその人の現実に即したさまざまな理論を折衷し提出し続けるのだし理解し続けるのだし。
 僕はこの程度の人間でしかないし、これからも是非、この程度の人間でありたいと思っています、ただしニューロティックな主体である事に自覚的でありながら。

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