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ファリックで在る事に対する憧れ
2018年10月28日 10:14人生の中の選択とか大きな決断とか岐路とか、そんな大それたものでなくても、ただ単純に、やるかやらないか、対峙するか逃げるか、自分を律するか甘やかすか、筋を通すかフェードアウトを企むか、行動、それは人の為である場合も自分の為である場合も勿論あるのだけれど、どんな場合にしても逃げずに進む事というのは、しんどい、逃げたり避けたりする方が間違いなく楽、そこでは自分をだますという工夫は必要にはなってしまうのだけれど。
自分の為でも人の為でも、取り敢えず逃げずに動こうとする時、僕の場合はある一つのセリーがそこに、だからこれは構造としてどこかのタイミングで自身の内部に構築されてしまっのかもしれない。
現象に出会うもしくは予見する、その時何故か瞬時にその現象に対峙する事に面倒くささを感じて逃げ出す自分のヴィジョンが反射的に鮮明にリアリティを伴って湧き上がる、そのヴィジョンとしてのもう一人の自分をファリックな自分がシバキ倒す罵詈雑言を浴びせ口汚く罵る、このシバキの過程のどこかのタイミングでこれは多分・・・・・解離する・・・解離するのかなんらかのインターフェースやキャラクターが創造されるのか・・・・・腑抜けなヴィジョンとしての自分をシバキまくった怒りの感情そのままの勢いで自分のインターフェースやキャラが現象に衝動として突入してゆく。
だからどんな場合でも、頭で考えて賢明な判断の元で準備万端動きだす、という事はまずない、まずは衝動があって、現象から逃げ出す自分を明確に想像して「ダセーんだよ、このくそやろうが、死ねよっ」とか、まあこれは自分が自分に対して鞭打っているという事なのか、ただここでは本当に半殺しにしたいくらいの憎しみが逃げ出す自分に対して湧き上がってしまう事は確かなのですけれどね、で、衝動的にそいつをぶっ飛ばして動きながら知を回転させる。
なんだか、この自分の性分というのはどうもよく分かりません、理解不能、だからこその性分という事なのでしょうが。
心の中ではよく言ってます、ただ自分に対してだけ、人に対しては決してそんな事は思わない、自分に対してはほんと、まあこれは設定としての逃げ出す自分というヴィジョンに対してですけど、ダセーとか使えねーとかいっそのこと死ねとか、そう、自分に負けたくないとかそんな綺麗な言葉で表現可能なものではなく、ただただ無性に腹が立っている、ムカついている、そういう感情由来の事でしかないのですけれどね。
そうやってもしかしたら、ファルスを鍛えようとしているのかもしれないです、ではそのファルスを鍛えようとしているのは誰なのか、たぶんそのファルス自身の企みであるような気がする。
なぜそんな事をファルスは企むのか、思うに、そのファルスに刻印された傷が原因なのでしょう、その傷だけが唯一の原因、上記のような独自のセリーで自分を衝動として動かす事によって、ファルスはその傷を修復しようと企んでいる、ファルスの自己修復機能とかあるのかどうなのか、僕にもよく分かりませんが、自分を探ってみるとなにかそんな感じがします。
常に自分に対して「逃げんじゃねーよ、このクソ豚野郎っ」とか本気で思ってるし、なんかそれってちょっと笑えて楽しい現象なのですけどね。
理性由来としての、プライドとは違う、自分に厳しいとかも違います、単なる湧き上がる激情でしかないのですから。
思えば常に何らかのインターフェースとして存在しているだけ、それが生成されていない時の自分というのは、空っぽの自分でしかないのか、そう空白や空虚でしかない、もしくはカオス、どちらも何かが立ち現れる元なのかもしれませんし。
・・・・・・ふと思いましたが、ファルスの傷、何故ファルスに傷が刻印されているのか・・・・・・・・・・・・・・生き延びる為に受け入れた、ふりをした去勢に抗おうと・・・・・・・・・・・症状ですね。
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