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マエストロは存在しない
2019年03月26日 10:22言語の洪水、渦巻く言語、カオスとしてのシニフィアン、カオス状無意識、そうだな渦巻く言語、渦巻く言語という名差しが最もふさわしいように思えます、自分というのは単なる渦巻く言語でしかないように思う。
そこに感情はあるのかというと、どうもなんとなく、あるとは言い切れなくて単なる記録の集積、経験や学習の集合体、その集合体はただ経験や学習を無造作に、薄れゆく言語として放り込んであるだけの。
その言語の渦巻きが、カオス的集積が、自分が他者と関わる時にのみ何らかのインターフェースを瞬時に感覚的に作り上げる、このシチュエーションにはこのインターフェース、この人のこの状況にはこのインターフェース、これは自分の思考の管轄外で自動的にコミュニケーション機械が組み上げられる感覚に近い、というかそもそも自分の思考、この自分の思考というものですらその思考する自分というキャラクターを自動生成したのは誰なのか、状況やその場の感情によってキャラクターはいかようにも変わる訳だし、じゃあ自分を操作しているのは感情なのかというと、まあそう・・・・・・・・そうなのかもしれません。
無意識的に瞬時に生成されるキャラクターという自分のようなもの、それは一つではないというよりいくらでもある、超多重人格的な在り方これは誰でもそうなのだと思いますけれど、メタ自分? マエストロは存在しているのかとかも本気で思う。
感情と言語は一体ではないように思えます、経験から切り離される感情、感情は観念の集合体として、それは自分でも把握不可能な観念の集合体として、渦巻く言語を統率しようと常に企んでいるかのようで・・・・・・・・とかいう、妙に抽象的な自分でも何が言いたいのか分からない話でした。
ただ、書き始めに確信していたのは、自分というのはただ単に言語の集合体でしかないのではないだろうかという事です、そこに感情は付帯していない、感情と経験は全く別の領野に存在している、みたいな。
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