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メンヘラ的な
2017年12月31日 19:00武装している人、知によって武装している人、それは社会で自分を表現する為であったり、強い想いの元自分独自の人生を生きる為であったり、もしかしたら外傷を否認し続けるように戦い続ける為にであったり、自分との闘いである場合もあるでしょうし、同業と、自分は別に意識していないとしても、相手から勝手に同業であると認識される場合もあったりして、そんな時に相手が決してかなわない位の強い武器を・・・・・これは一般的には知、知による武装になる、同業の手の届かない彼方に存在する自分。
そうやって戦い続けている人というのは非常に美しいし、感嘆と共に魅入るしかない。
ああ、あともう一つありました、病んでる人も美しい、これはもしかしたら病んでるというより今風に言えば、メンヘラ、メンヘラも美しい。
人を理解するのに表からその人を見ただけでは、何も理解できない、人を理解するには裏からその人を見る必要がある、裏、だからそれは病理、精神病理の文脈によってその人を理解する、僕は常にラカンやクラインやビオン、あとはフランス現代思想の領野から理解するように努めていますけれど。
人が、自分として頑張れる時、そこには多くの場合もしかしたら、外傷が存在しているのかもしれない、そしてその外傷を打ち消し続ける為に頑張る、だから言い換えれば頑張れる原因としての外傷、それは確かに辛い経験だった訳ですけど、もう今となっては取り返しのつかない事、自分が既に経験してしまった事、それに意味を持たせるためにも、その延長線上として、頑張る。
メンヘラ、特に自傷、自傷にも様々な自傷行為があるのでしょうが、その中でも、切る、吐く、この切ったり吐いたりするという行為は、自己完結の為の行為でもある、そして大きな苦しみすら伴っている場合もある。
高まったストレスを他者を利用して開放するのか、自分独自の責任の元で開放するのかの違い、他者を利用して開放する、それは他者を傷つけることにも間違いなくなりますね、そうはせずに自分の責任として自己完結しようとする態度というのは、これもやはり非常に惹きつけられる、これは多分、その人の抱えた大きな葛藤という純度や強度に惹きつけられるのだと思います、いずれにせよ純度というのは美しさのバロメーター、貴金属だってそうですよね。
まあまあ、こういう何に惹きつけられるかとか、何を美しいと思うかというのは、多分自分も同じ要素を持っていて、それを表現している人に対して美しさを感じるのだと思います、同一線上にいる人に美しさを感じる。
精神の病理から、人を裏から見た時に、そこに自分と同じ要素を強く感じる、愛を向ける3つの条件の中で最も強いのは、自分と似ている事でもある。
相手の中に自分と同じ要素を見出す、そうするとその人は勿論他人ではなくなる、自分の一部というか、まるで自分のようというか、精神的にはお互いとしての個ではなく、一つの精神になる、という一体感、
その人を美しいと思い愛を向ける、慈しむ、愛撫するという事は、自己愛が大きく満たされる、その人を愛する事は自分を愛する事でもある。
自分をキチンと受け入れている人の場合はこんな感じ、そうではない場合は、自分と同じ要素を見出した相手を愛という名の元、鍛える、というかダメ出しし続ける、厳しく接する、それは自分を無意識的に嫌っているから、だからその相手を通じて、自分にダメ出しし続けている。
その構図というのは、非常に苦しくもありますよね。
知によって武装している人は間違いなく美しい、これは容姿とは関係ない、自己完結できる純度の高いメンヘラも間違いなく美しい、これも容姿とは関係ない。
それらを愛するという事は、自分を大切にする、自分は自分でいいという、自分に対しての無意識的なメッセージでもある。
僕は別に切ったり吐いたりはしていないですけど、想いはよく分かります、ああ、高校生の頃は普通にやりましたよ、切ったりというのは、多分僕らの頃が第一世代なのかな・・・・・・・そのあと部活とかだと、かなりしみましたけどね、何枚かテキトーにバンドエイド張った手首の上に薄いサポーターだし、だから滲んできちゃう、とかいうこれは昔の思い出です、今は社会に適応しつつ、自分を抑え込むとか、自制を欠かさないとか、ストイックじゃないな、完璧に自分に対して突き詰め続けるとか、これは表象が変わっただけで基本心性は多分高校生の頃から何も変わってはいないのでしょう。
適切に愛する事、適切に慈しむ事、守る事、抱きしめる事、こういう行為は自分に大きな力をもたらす、というのは当たり前の事ですね。
そうだ、メンヘラの自傷は決して否定されるものでも顔を背けられるものでもない、誰にも迷惑をかけずに自己完結しているその人をみて、誰が顔をしかめる権利があるのでしょうか、自傷ダメという提言も無効、そうやってギリギリ生きているその人自体を、その人の存在そのものを、否定する事にしかならない、その在り方が唯一、その人なのですから、逆に愛されたっていいし、守られたって保障されたっていい、そこからしかなにも始まらないですよね。
そうですね、年の瀬に何を言っているんだか、ちょっとここのところこんなような事を実感したもので。
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