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リリック

2017年12月29日 10:11

映画でもドラマでも動画でも、出くわした何らかの現象や社会での出来事としてニュースになっている事でも、本当は人それぞれの主観によって感じた事や感想というのは違うのか、もしくはそれらを複数人で目の当たりにした時、どのように感じるのが正解なのだろうかとか、どのような感想を抱くのが正解なのだろうかとか、だから自分の主観が発動するのを、みんなはどのように感じたのだろうかという想いが、ストップをかける、主観的な感想を抱く以前の段階で、みんなで共有できそうな感想を手探りで探そうとするのか、過去のデータを瞬時に参照するのか。
感想を聞かれた時、特に映画を見終わった時の映画館の出口とか、街中での友人同士複数人でのインタビューとか、誰かがそれとなく口火を切ったのに合わせるかのように抽象的な感想がみんなから溢れ出す「そうそう○○・・・・・みたいな」とか「○○じゃないですけどぉ・・・・・・・」とか、大袈裟に手を叩きながらのリアクションも勿論、あの作法はいつから始まったのか、テレビでひな壇のタレントさんから広まったのか?
まあそんなところで独自の見解を流暢に述べたところでドン引き間違いなしの空気の読めないやつになるしかないのでしょうから、それは仕方のないことなのだとは思うのですが、いちいち議論や意見交換なんか誰だって面倒なのでしょうし、だったら簡易的な言葉で同調し合った方が楽でもある。
その形態に慣らされ過ぎてしまうと、もしかしたら個人的な事に関しても、主観的な想いというのが、なかなか出てこなくなってしまう事態に陥るようにも思えます。
個人的な感想、主観を探り当てるのに、トレーニングすら必要になってしまう、という今という時代、べつにそれが悪いとは思いません、共有出来て盛り上がれて、承認し合える、これは自己を保つ上で大切な事でもありますしね、みんなの一人であると確認も出来る、毛づくろい的なコミュニケーション手法、という優れたコミュニュケーションの在り方。
主観を放棄してみんで同調する時、その時の自分というのは誰なのか、誰になるのか・・・・・・みんなになる、自分はみんなになる、それはそれで今の時代を器用に生き抜く知恵。
ただ、主観的な感想や情緒を語る時、人というのは割と輝きを増す事が多いようにも思います、それは一対一とか、敢えてそういう場を設けてとかでやればいい事なのですけれど、それも面倒なのかな、分かりませんけれど。
だからもしかしたらこれは、なんというか、リリック的なもの、そう、リリックというのはある意味、大切なものなのかもしれないな、と思います。
豊かなlyricに触れ続けると、自分の中からもいつか自然と溢れ出してくる。


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