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・・・・・であれば、何度死んでいる事か。

2018年07月20日 11:53

「何の為に生きるのか」などと言う「生きる意味」みたいなものは、本来なんの意味も持たずにただ生まれてきた、多少露悪的言えば生まれてきてしまった、それも奇跡的にと言う事なのでしょうから「何の為」という本来的な意味はない。
ああそう、名前、自分が生まれてきた時、家族の中心にもし自分が置かれたのだとしたら、その家族の語らいの布置にて眼差され「こういう人間になって欲しい」との想いから命名されたのだとしたら、もしその名を家族の想いと共に背負い続ける事を快諾するのであれば、それは一つの、その人の生きる意味になるのかもしれません。
ただそれは、ある意味ひとつの規定でしかない訳で、自分に関していえば、勿論その名前で呼ばれれば返事はする、でもその事と、その名前を自身のアイデンティティであるかのように常に携えているかと言うと、決してそんな事はない、どちらかというと、自身の名前というのは便宜上という意味以上の価値を持っていないかのように感覚し続けてもいる。
単なる記号であるかのよう、呼称、コードネーム、もしかしたら匿名性、これは何者でもないからこそ何者にでもなれると言う想いに基づいているのかもしれませんが。
外岡〇〇という氏名、この○○に入るのは、サシスセソでも529でもVersion3.1改とかでもいい。
・・・・・・今書いていてふと思いましたが、Version3.1改、そう、たぶん、これが一番しっくりくる。
なんの意味も持たない「知と情緒」という本体としての自分、無意識の自分、その自分というものは命の続く限り実験を繰り返している、それは壮大なという美句でナルシシックに彩っても差し支えないのかもしれませんが。
人生というフィールドでの壮大な、そして多分、成功に辿り着く事はない、道半ばで自分なりのなんらかの結論を出す事しかできない、実験。
実験を繰り返す理由はもしかしたら、退屈しない為に、とかも大きな理由の一つ。
自分が設定したアバターを操作する本体としての自分、社会に参加しているのはそのアバター、VRゲームであるかのような。
そのアバターを本当の自分だと思ってはいけない、何故なら彼らは、時に失敗し、傷つき、絶望する役割を担っている場合もあるから。
僕自身のアバターは今までに、何度も消滅している、その度にそのアバターを自分本体だと認識していたのだとしたら、もう何回死んでいる事でしょうか。
アバターは本体の思いの一部を社会との関わりを通じて表現する、そして本体にフィードバックする、それが大きな役割の一つ。
フィードバックとなると、インターフェース、アバターではなくインターフェースの方がしっくりきます。
命、人生、自分、自分の本体、本体としての自分と社会の接点、つなぎ役、インターフェース、試行錯誤、遊戯、本気のゲーム、遊び尽くす、遊ぶ為のステージ、退屈しないように。
インターフェースがフィードバックしてくるものは常に、本体にとっては味わい深いはずです。
思いつくままにただ、だらだらと書きました。

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