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不可能の彼方

2016年01月19日 21:07

自由というのは、上手く体現できないものというか、上手く言葉で言い表せないものというか、なにかそんなようなものであるように感じてしまいます。
どういう時に自由を感じるかと言うと、役割を解かれた瞬間には、その一瞬だけ自由になったように、いや、これはただ単に、開放感なのか。
シバリのある状況から解き放たれて「さあ、今からは自由にしていい」と言われたら、どうするんだろうか?
やりたい事をやる?
でも、やりたい事の中にもルールはあって、その規定に従わなくてはやれないのかもしれなくて、自由には行動できないかも。
自分勝手にというのは、やっぱり無理なのでしょう。
そうですね、だから、自由と自分勝手と開放感というのは違うものなのか。
で、勝手や解放を表現する時、それを自由と履き違えてしまうのか。
じゃあ、どんな概念にも囚われないで生きればいいのか?
でもこれは、囚われないで生きるという強い想いに囚われてなんとなく窮屈のようにも感じます。
自由を保障されたら、その時は多分、やりたい事をやろうとするんじゃないでしょうか、で、そこには自分の自由にならない、規定をするものがあって。
なにもやらないという事も、なにもやらないという事をやる、という一種強迫的な事なのでしょうし。
すべてのルールを排除して、勝手気ままにと言うのはやはり無理なのか。
どんな環境にも社会性があるのだとしたら、そのルールを自分に枷なくてはならない訳だし。

自由って、人間がルールによって規定された中でしか想い描く事が出来ない、もしかしたら不可能の彼方、みたいな感じなんでしょうか。
自由ー無所属ー何者でもないー承認の欠如ー不安、こんな感じの流れも?

ハードに日々を過ごしている中で「あーっ、自由になりてー」って思って、その時想い描くのは、自分のやりたいことやっている自分、誰にも指図されない自分。
やりたいことなら、そこに存在するルールには当然従いますし。
まして、指図されない自分って結構大変かもしれないですね。
常に自らを律して、自分で自分に厳しく指図しないといけないような気もします。
自分を承認してくれるのは、自分だけだったりもするのかもしれません。
ーーー自由とは、規定の中で一瞬だけ想い描く事の出来るファンタジー、こんなようにも感じてしまいますーーー

・・・・すいません、思いついたままに、脈絡なく、検証もなく、ただズルズルと書き連ねてしまいました。
とりあえずの叩き台という事で、多分きちんと考えれば、すっごい素っ頓狂な事書いてるのだと思います。
訳の分からない文章を読んで頂き、どうもありがとうございます。



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