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世間体とか常識とか

2017年02月14日 09:10

理性が僕らの行動や想いを規定しているのだとして、その理性の中身というのは何でできているのか。
目に見えない、あると思えばある、そしてないと思えばない、世間体のようなものとか、先輩社会人、年長者、自分たちより以前から社会に参入していた者が後から社会に参入してきた若者にせっかく自分が築き上げた立場を脅かされないようにする為に作り上げた常識という名の防御壁・・・・・・まあ、半分は冗談で書いていますが。
理性の中身の多くの部分が世間体や常識であった場合、考えてみれば、それはやはり窮屈にも感じるのかもしれませんね、なんといっても、自分の想いを行動に移そうと考えた時、それを監視し吟味し判断するのが、自分自身ではなく世間様であったり、年長者の影であったりする訳ですから。
まあ、だからってそんなものは振り切って自分のやりたい放題、という訳にはいかないのでしょう、社会からはじき出されてしまうのかもしれないですしね・・・・だからバランスなのでしょうけど。
敢えて世間体や常識をもって、と言うより、礼儀正しく・・・・・そう、礼儀正しくあれば年長者なんてものはどうにでもなる、場合もあるのかもしれない・・・・半分は冗談ですが、そして時には腹黒く、社会に適応しながら自分のやりたい事をやる、やりたい事をやる為であれば我慢・・・・と言うか謙虚なフリも出来るのかもしれませんね。
又、世間体や常識の外側で自分を表現する時、礼儀正しくあれば、それはそれでギャップ萌え的な受け入れられ方をされる可能性も、皆無ではないのでしょうか。
そうして自分のやりたいことをやっているうちに、いつの間にか社会に対する感謝が芽生えたりして、演技ではなく本当に謙虚になってしまう、腹黒さがどこかえ消し飛んでしまう。
自分がやりたい事をやる為には、それを承認し受け入れてくれる人達が不可欠で、その役割を果たしてくれるのは、他でもない、世間体や常識をインプットされた、社会で生きている人々なのでしょうから。

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