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神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
二度と戻れない場所
2018年09月27日 10:03エリックサティの音楽はとても魅力的、魅力的であるからこそとらわれるとちょっと、なかなか抜け出せなくもなってしまう。
どこから抜け出せなくなるのか、幻想とかファンタジーとか心的外傷とか、激しく交差し続ける絶望と希望とか、閉塞の中での弛緩もそうか、あとメランコリーからも、僕の場合は特にグノシエンヌ、他はそんなことないです、だからグノシエンヌがそれだけど真ん中ということなのかもしれません。
グノシエンヌを聞く事によって僕はどこに誘われるのか、というより引っ張り込まれるのか。
乳房・糞便・声・眼差し、帰りたくても決して返る事は出来ない、永遠に失われた場所、二度と取り返せない、そのもっと先にあるのは胎内回帰みたいな事。
これらに心地よさを感じる人も勿論沢山いらっしゃるのだろうけれど、究極の癒し的な。
しかし、どうも僕はそこに引き込まれる事に対する大きな抵抗がある、原始のスープ、そして母子一体、母の乳房から乳児の肛門という経路をめぐる事で完結する母乳の流れという一つの完璧な機械としての母子一体。
守られて安寧するという事は自由ではないという事、そこに自由は存在しない、ただ絡めとられるしかない身動きのとれなさ、」そして諦め。
その身動きのとれない感覚は硬い型枠に嵌めこまれている訳ではなくて、イメージとしては高粘度の液体に、それも生暖かい鉛色の液体に全身を浸され纏わりつかれて指一本動かせずにいる苦しい感覚、動かしたくとも動かせない金縛りの焦燥にも通じる。
乳幼児期のこの体験は絶望に接続されたのか、逆にいつまでも漂っていたいと思わせたのか、それとも自由になる準備段階として希望を抱いたのか分かりませんが・・・・・・しかしだからこそ希望と絶望が激しく交差するイマージュが湧き上がるのでしょうけれど。
なにか話があらぬ方向へ逸れ続けました、ただ、僕にとってはそうだというだけの事で、多くの場合は間違いなくノスタルジーや倒錯を経由して癒しの空間に誘われるのだと思います。
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