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人それぞれの牛乳

2018年06月11日 10:26

牛乳を飲む時は決して気を抜く訳にはゆかない、湧き上がりそうになるビジョンを常に抑圧し続けながらでなければ、僕は牛乳を飲むことが出来ない、というのは7割方は冗談です、だから3割位は本気。
牛乳、牛の乳、牛という動物の乳汁、本来はその母牛が子牛に与えるものとしての。
なぜ人間はそれに目をつけ、それを飲むようになったのか、工業的生産物としてまで。
常にもごもごと口を動かし反芻している動物、ちょっとなんか垂れてたりとかも、匂い・・・・・は、まあ、いいや、特別にかわいい動物という訳でもない、猫のように萌え要素の塊という事でもない、だから倒錯は常識的に考えて不可能であるかのようにも思えるし、そう言えば猫というのは二次元に対抗できる実体としての唯一の三次元とか言われる事もありますね、今は関係ないですけれど、ああじゃあ、ウサギは?ネコ耳、ウサ耳、いやいやそれを言ったら角は?鬼っ娘とかは?違う、3次元のありのままの話でした、いやほんとに今は関係ないです。
ちょっと話が逸れてしまいましたが、牛乳を飲む時、もし牛のビジョンが湧き上がってきてしまうと、僕はどうしても飲むことを躊躇してしまう、だからなのか、あまり飲む機会自体多くはないのですが。
乳製品に加工してあればそれほどでもありません、あの液体のままの生々しさからイメージされてしまう乳牛の在り方やそれに付帯するビジョンや匂いや温度感、これらがちょっと苦手。
別に牛の乳房(にゅうぼう)にムシャブリついている訳ではないのですし、ましてそんなような搾取があるのかどうか知りませんけれど、僕ら人間も乳児の頃は多分、母親の乳房に無意識的にムシャブリついていたのかもしれない、まああまり想像したくはありませんが、あっ、もしかして小ぶりな乳房に安堵を覚える人というのはここの部分に関係しているのか・・・・・・・その場所には戻りたくない、戻る事の不気味さ、母親という観念の集合体に対する嫌悪、とか言う事はあまり表で書く訳にはいかないからやめておきます。
母親の乳房に夢中でしがみつき安寧を得ていた、その代替え物としての牛の乳、それに違和感を覚える事はクラインの言う妄想分裂態勢から距離をとり自らを安定させてくれる、あっ、小ぶりな乳房に安心を感じる、理性、知、赤ちゃん返りの否定、乳児期には戻りたくない、寸断された身体の消滅そしてその事実の理解受容、戻る必要のない場所、自律し続ける為、大人であり続ける為、無意味な退行を阻止する為、これはもしかしたらそうなのかも、知とか理性とか・・・・・・・いやちょっと思考がとっ散らかってきました、あとで少し整理します。
小ぶり云々という事について考えてみると、性愛から心的現実としての母親を排除したいという想いも垣間見れる、ような・・・・・迫りくる巨大乳房に対する恐怖、マザコンに対する恐怖。
もともと牛乳の話だったのですが、いらぬ方向へ逸れてゆきました、単なる思弁です。


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