神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


何を、もしくは何だけを、大切にしながら生きるのか。

2017年11月17日 18:59

何を大切にしながら生きるのか・・・・・・多少露悪的に言ってみれば、
なんでしょうかこれは、自分のもとを訪れてくれる人や僅かな身近な人、あとは金、やはりどんなきれい事を言ったとしても金が大切であるというのは事実、衣食住や医療にも当たり前のように金が必要な訳ですから、やはりそれらを賄う為の最低限の金の確保は大切。
極限まで自分の環世界を絞り込んでいった時、これ以外のものは今の情勢の日本で生きる以上、僕にとっては必要ない。
ごく僅かな身近な人、あと、カウンセリングに来てくれるお客さん、特に継続的なお客さん、あとは金。
それ以外の人間の事には全く関心がないし、関心を示そうとは思わない、これは関心を示さないという態度を崩さない事によってお客さんに対して真摯に唯物論的なかけがえのなさ的なもののもと向き合っている、という事を宣言しようとしているのかもしれませんが。
・・・・・・・そういえばやたらとニュースや世の中の出来事について語る方や関心を寄せる方っていらっしゃいますけれど、そういう人の一部には自分自身が抱える問題から目を逸らすためのツールとしてニュースや出来事を利用し、憂う嘆く、という構造も見受けられる場合があります、まあほんと、ごく僅かな方という事ですが。
ああ、ぼくはブログすらも、その時に自分の心的領域の多くを占めている特定の方に対して書いているので、そういう書き方が全体の半分位でしょうか、だから読んでピンとくるのは多分その人だけなのだと思いますが、僕はほんと、特に人という事で言うと、わざわざ自分のもとを訪れてくれる人以外の人には一切関心を示したくはないのです、お客さん以外の人間には全く興味がないという体を貫き通したい自分、知ったこっちゃないという体を貫き通したい自分、その効果としてお客さんに対して真剣に親身になれる自分というものが生成される。
僕は最大公約数的な話し方をする人というか、より多くの人に媚びるような話し方をする人には大きな違和感を覚えるので、だから、こんなような露悪的な語りが性に合ってもいるのかもしれないですけれど。
僕の場合は仕事柄多少は特殊ですけれど、でもこんなのは誰だってそうなのではないでしょうか、何を大切にしながら生きるのか、という事について多少露悪的に言ってみた場合には。
普通に常識的な言葉で、理性的に美しく装飾して言い表せば「自分を自分でいさせてくれる人に感謝し、それらの人を大切にしながら生きる」という当たり前の事なのですけれど、そう、これを裏打ちする場合についての話です。

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