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何者でもない自分

2017年09月07日 08:59

自身の青年期と完全にかぶるテレビドラマ、ふぞろいのリンゴ。
病んだ感じ、アンニュイ感じ、ダサさやカッコ悪さに途方に暮れるしかない焦燥、何もない自分、空虚で無意味な自分・・・・・・を否認し続けているだけの、それは眼前に自身で用意した無責任な楽しみで重大な事実を抑え込みながら。
青年期というのが何歳までなのか、それは時代によって違うのでしょうが、僕が思う青年期というのは18歳から22歳23歳位まで、それは高校生というシバリがなくなって、ある程度の解放感と共に社会からの規定を免れ漂う事が不可能ではない期間、今は年齢幅の上限はもっと上がっていますね。
タガが外れ、バーナウトしながらも時には哲学的思考にも陥り、ただそうなると自分の空虚さばかりが前景化してきてしまうのですが。
自分の経験してきた過去、自分史というのはどうしても美化して語りがちですが、一切のナルシシズムを排除し、ただ、他人事のように客観的に自分史を語ろうと努めた時。
青年期、心的緊張をとにかく低く抑えたかったのか、いや、そうではなくただやりたい事だけをやっていた、やりたくない事、要は陰性のストレスがかかる事は一切避けていた。
勉強とか学習とか、そういうものを押し付けられる事のない環境、大人の目を離れ、自主的に在る事が許される環境、その場所でただ、自身の心地よさだけを重要視していたのでしょう。
そんな自分の意思のはっきりしない期間、その期間があったからこそその後の自分があり、それが今の自分につながっている、などという自分史の美化というごまかしが一切通用しない、思い返した時には完璧な後悔でしかない4~5年間。
空虚を遊戯で覆い隠し、自分に対して無責任を貫き通した4~5年間。
本来であれば、空虚さを振り払う為に、何らかの目的を設定してそこに向けて邁進したり、目を逸らさずに葛藤と共に自身に問い続けたり、その方がよっぽど意味のある時間を過ごせたのでしょうけれど、ただただ楽な方へ楽な方へ、流れていただけの時期。
確かに社会的背景を考えると、あの時期というのは時代そのものが空虚さを覆い隠していたのかもしれないけれど、しかしそれに迎合せずに自己を努力と共に確立し続けた人だってたくさんいた訳ですし。
正直な話、僕は青年期には完璧な後悔しかありませんし、それなりに楽しかったからよしとしよう、などという事は、多分一生思えないんじゃないかなとは思います。
何者でもない自分、かと言って何者かになろうとする訳ではなく、エネルギー自体が枯渇していたかのようでもある、そんな中でアンニュイ領域に時には足を踏み入れ、少しは病んでみたり、カッコつけようとしてもスノビズムだかなんだか分からない状態でもあり、常にダサさと共に在りつつも、それを否認し続けた自分。
そんな期間を経て、25歳前後の時、突如として真逆に振れ、野心にまみれて突き進みだす訳で、まあ、これもよく分からんのですけれど。
・・・・・自らについての記述から離れ、少し真面目な話をすると、何者でもない自分とは無器官体、未分化の潜在性の塊としての自分、器官無き身体・・・・・・何者でもない自分というのは刺激やエネルギーさえ注入すれば、さまざまな自分に分化できる楽しみの塊でもある。
今、何者でもない自分、リセットして一息ついている自分、こういう自分というのは、エネルギーさえ注入すれば、さまざまな要素に分化出来る潜在性の塊のような自分。
ちょっと、いつもスイマセン、もっと分かりやすく書けばいいのでしょうが、不特定の人にいい事言ってドヤ顔する自分、というのがどうしても気持ち悪く感じてしまうので、変な言い回しにしてしまう癖が。
一対一で、対面で、その目の前の人の為に、目の前の人に合った自然で普通の話し言葉で話すのと、こういったブログとは全く別ものだと思っているので、郵便は届かない、的な。

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