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依存なんて当たり前
2017年08月04日 08:35依存・・・・他のものによりかかり、それによって成り立つこと。
なのだそうですが、考えようによっては別に悪い事でもなんでもない、要はイメージなのだと思うのですが、そしてこのイメージというのは、上記のような依存の定義ではなくて、嗜癖としての依存のイメージ。
嗜癖としての依存を他者に向ける時、そのターゲットとなった他者は、極端な場合、行きつく先は極度の疲弊、そして破滅、これはやはりよくない。
そうではなく、冒頭のような依存の定義であれば、これは自然な人の在り方でもある、よりかかり、というよりは互いに寄り添い合いとか、支え合いとか、これは自立した個人同士においてでもそうなのだと思います。
人というのは、自分以外の誰かを通じてしか成り立ちようがない訳ですし。
だから自立の対極にあるのは、依存ではなく、嗜癖としての依存であって、冒頭の依存というのは、だからこれを依存というべきではないのかも、とかも、カウンセリングの文脈においては思いますが。
特に、あれですよ、だからそう、弱っている時なんかは人に思いっ切り寄りかからなくては絶対に自分を保てないのだし、だから元気を取り戻すまではいくらでも冒頭の意味での依存をすればいい、甘えればいい訳で、そんなことは当たり前。
極端に言えば、自立しているからこそ適切に依存できる、とも言える。
今の成熟した世の中、多くの人が、自然と、自明として無意識的に、寄りかかり合いながら、寄り添い合いながら、それによって自己を成立させている、そこには様々な喜びもある。
そして思いっ切り弱った時は、いつもより多めに依存して自分を修復してゆけばいい、守ってもらえばいい、甘えればいい。
そしてさらに言えば、今までに、甘える頼るといった依存の経験のない人は、まずはそれを経験してみれば・・・・・自分を受容するきっかけにもなるし、自分は自分でいいのだと思えて、不安や緊張も徐々に薄れる・・・・・最初は勇気がいりますが。
夫婦、恋人、親兄弟、親友、会社、職場・・・・・・普通によりかかり合ってますよね、そしてそれによって成り立ち合っています。
こういった話の流れから考えるに「自立」の反対は「嗜癖としての依存」なのだとすれば「冒頭の依存」の反対というのは、なんだろうか「孤独とか、孤立とか」そう、僕の思う依存の反対語は孤独であり孤立。
弱った時、病んだ時、こういう時は多めに依存して当たり前、そうしなければ自分は保てない訳ですからね・・・・・常套句には惑わされない方がいい、と思います。
相変わらず極端に書きました、人それぞれの落しどころで。
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