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依存の中にこそある自立
2016年10月21日 09:06依存・・・・他に寄りかかり、それによって成り立つ事、とか書かれていたりもしますが。
だからどうした、というか、なんかこれって人の自然な在り方なんじゃないのか、と、屁理屈こねたくもなってしまう。
なんというか、自立した一個人であろうとした時、それは依存を経由しなければ到達できないようにも思え。
自立した個人である、と宣言するという事は「自分はこういうものである」と宣言するという事で、その時に必要になるのは、その宣言を受け入れてくれる人、承認してくれる人、自立した自分でいさせてくれる周囲の人達。
経営者であると宣言する時の社員、リーダーであると宣言する時のスタッフ、人に尽くす自分であると宣言する時の自分の行為を受け入れてくれる人達、自分を表現した時の賛同者・・・・・・・・・。
自分が何者であるか、何者でありたいか宣言する事は、自分を保つためにも大切な事なのかもしてなくて、それは自信や自立にもつながって、でもその為には自分の宣言を認めてくれる人達、自分の行為を受け入れてくれる人達、こういった存在が欠かせない、こういった存在がいないと成り立ちようがない、これは自分を認めてくれる、受け入れてくれる人達にいい意味で依存している、とか。
冒頭の、他に寄りかかるの件は解釈の仕方は色々になってしまうのかもしれないですけど、でもその解釈の中の一つには、承認を得るとか受け入れられるとか、まあこれは寄りかかっていると、もしくは精神的に寄り添っているといえなくもなくて、その事によって自分が成り立つ、要は自立した自分として、プライドや自己愛を保つ事が出来る、というのは当たり前の事のようでもあり。
だから考えようによっては、自立するためには依存しなくてはならない、とか、依存の中にこそ自立がある、とか。
そんなふうに考えられなくもないような、だからこういった依存というのは人として当たり前の事であって、依存症や嗜癖とは全く別の事。
誰だって、適切に依存し合わない事には自分を保てないですし、まして自立なんかできようがないのでしょうし。
自立するとは一人前の、何者かになるという事で、その何者かになった自分というのは、人から認められる事によって初めてその何者かであり続ける事が出来る。
自立した自分でいさせてもらう、という依存の仕方、みたいな。
人から認められなければ、独りよがりな自分でいるしかないのかもしれないですしね。
そう考えると、自立した自分として何者かでいさせてくれる人達に対しては、感謝の気持ちしか湧いて来ないような気もしますね。
依存というのはネガティブに捉えられがちですけど、嗜癖や攻撃と区別した時、それは人の自然な在り方であるようにも思います。
自分が何者であるか宣言する事、社会の中でどういう役割を担っているのか言い表す事、これは自立にもつながるのだけれど、その宣言は人から受け入れられないと承認されないと賛同されないと、自立した自分であると思い続ける事はできなくてーー自分で思い込むだけでは独りよがりに行きついてしまう可能性もあり、だから判断は人にゆだねるしかない、判断を人にゆだねるという意味合いでの依存ーーちょっとグダグダと極端に書いてしまいましたが。
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