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俺はスゲー
2017年08月16日 08:13「俺はスゲー」そりゃあ若い頃は、勿論こんな風に思っていました、20代位まででしょうか。
それは今にして思えば、自分に何らかの実績がある訳ではないし、適切な自信がある訳でもないし、あるのは強固なプライドだけ、そして「俺はスゲー」という根拠のない自信だけ。
ただ、若い頃というのは、この根拠のない自信のおかげで、行動する事が出来る、とも言える。
何かをやろうとする時、それが成功する根拠を示せと言われたとして、何らかの根拠のもとにその行動を起こそうと考えていた時、その根拠を示し、万が一それを論破されてしまったとしたら、自信はたちどころに消失し、行動を起こす気力すら失せてしまうのかもしれない。
逆に、そもそも根拠自体がない場合、もしくはそんな事は考えてもいない場合、何を言われたとしても「だって、俺はスゲーから」で押し通すことが出来る、たまに人から「バカなの?」とかは言われるかもしれませんけどね。
ただし「俺はスゲー」で押し通したからといって、必ず成功する訳ではない、というか割とコケる・・・・・でも「俺はスゲー」は消失する事はない。
「俺はスゲー」という根拠のない自信を持ち続けなくては自分を保てなくなってしまうから、だから否認し続ける、そしてその否認の効果として、症状として動き続ける。
若い頃、そんな事を続ける中で、極まれに成功を経験し、微妙に実績を積み、徐々に「俺はスゲー」という根拠のない自信から、適切な自信に・・・・・と言うよりは、やれる事、やれない事、という適切な判断が下せるようになる。
そんな若気の至りを経験して、今、適切な自信の元に自分が在るのかというと、決してそんなことはなくて、ただ、自分にできる事を、やらせてもらう、という、ただそれだけ、沢山の失敗と、ほんの少しの成功の先にあるのは謙虚なのか、僕自身はまだそんな総括はしたくはないように思います。
また何かをやろうと思った時には、どこからか「俺はスゲー」を引っ張りだしてくるのか、それとも適切な判断の元に、理性の管轄の元に自分を置くのか、それはその時になってみないと分かりませんが。
若い頃の根拠のない自信というのは、そう無駄でもない、そして歳をとってから分別臭くなり過ぎない事も割と大切、なのだと思います。
一生「俺はスゲー」と言い続けるのは、ちょっと危険ですけれどね。
人生のひな形は存在しないのですね、マニュアルもない、唯一あるのは、人それぞれ、その人に合った生き方、行動も勿論大切、その行動の元となるのが根拠のない自信の場合もあるし、論理的思考の場合もあるし。
失敗と回り道を繰り返しながら、一般的にはその先に答えがあるようでいて、しかし未だに回り道をしているような、実は既に答えは見えているにもかかわらず、ただそれを見ないようにしているのか、もっと別の答えを求めているのか。
答えが見えてしまったら、何かを納得しなくてはいけないような、ある種の諦めを受け入れなくてはいけないようにも徴候する中で。
だから、あれですかね「俺はスゲー」は経験と共に徐々に「まだいけるかも・・・・というかもう少しだけ行きたい」に変わってくるのかな、とか、今書きながら思いました。
ああそうだ、根拠のない自信や「俺はスゲー」という思い、こういうものがもし、自分の置かれていた環境であったり、時代的な背景であったり、そういう要素から生み出される考えであった場合、今の時代の若い人がもし、経験からではなく、最初から「自分にできる事をやらせてもらう」と考えていたとしても全く不思議ではない・・・・・・そしてその場合は僕自身も、成熟の在り方として今のように考えるに至ったという事ではなく、ただ時代背景や環境に適応していただけ、という事になるのかもしれない、まあ、それならそれでいいのですけれどね、人は環境に適応しつつ生き延びるのでしょうから。
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