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偶然の中に潜むもの

2016年08月02日 09:13

日々の中で、多くのもの、多くの情報、厳密には多くの言葉と言った方がいいのかもしれませんが。
その多くの言葉と常に偶然に出会い続けて、そしてそのほとんどは自分を通り過ぎてゆく、となるとそれは自分にとっては無意味なものでしかない訳ですね、当面は。
自分に向けて発せられた言葉、書店の棚に並ぶ多くの言葉、テレビやスマホからアナウンスされる言葉、街中に溢れている言葉。
そんな中で、何故かたまたま琴線に触れ、自分を通り過ぎなかった言葉の中のごく一部が自分に有効に働いて、いい作用を生み出した時、事後的に「自分にとって運命の出会いだった」と認識される、自分から能動的に探している時は別ですけど。
だから、なんでしょう、ほとんどの出会いは偶然なのだけれど、多少でも言葉を聞き取る余裕がもしあれば、その偶然の中に運命的なものを見出すことができる、という可能性が多少はある。
100%すべてが偶然とは言わないまでも、ほとんどの出会いは偶然であるように思います、その偶然の中に自分に非常に有効なものを万が一見出した時、それは運命もしくは奇跡という言葉で言い表される事もあったりするのでしょうか。
多くの偶然の中から有益なものを抽出し、それが自分を変化させる位劇的に作用して、その事に大きな満足を感慨の中で得られたとしたら、その時その現象は「運命・奇跡」という名で、あくまでも事後的に認識される、とか。
すいません、相変わらずどうでもいい事を書いていますが、やっぱり、ちょっとだけ気持ちに余裕を持つ事って、大切だったりするんですかね。
ーー余裕のない中だと、全てが通り過ぎていってしまう、もしくは無条件で受け入れてしまう・・・・という事もーー
多くの言葉が通り過ぎてゆく中、自分に見合った言葉というものだけはピックアップされる可能性がある、というのは当然の事なのでしょうし。
よく、強く念じ続けるとか表現されたりもしますが、その場合は・・・・う~ん、どうなのかな、僕はあまり興味はありませんが、行き過ぎると自閉してしまう事もありますからね。
一つの思いにあまりにもポジティブな姿勢でとらわれ過ぎると、バランス感覚を失調しますし、その想いにはとらわれていない人との間で、適切なコミュニケーションもなされにくくなる事もありますしね。


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