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共感の不可能性

2016年09月18日 09:01

共感が可能なのは、お互いに言葉を持っているから。
言葉によってコミュニケーションを取る中で、僕らは共感し合うのでしょうからねーー厳密に言えば言葉が不足している部分めがけてという事なのだと思うのですがーー。
その効果として、お互いを尊重し合う想いが芽生えたり、敬意を表したり、自立した個としての関係が生まれる。
言葉が通じるから理解し合う事ができるのですね。
逆に考えれば、言葉が通じないものには共感のしようがない、理解しようがないですから、そこにはリスペクトは生じないですね。
では、言葉が通じないものにはどういう感情を抱くのか?
乳幼児、ペット、ぬいぐるみ・・・・・もちろん言葉は通じない訳ですが・・・・・抱くのは、かわいい、という感覚なのかなと思います、それは所有欲や守りたいという思いにもつながりますね。
この場合の言葉が通じないという事実には、勿論言葉自体を持っていないものも含まれますが、もう一つ、言葉は持っているにもかかわらず、文脈を全く共有できないもの、あまりの価値観の違いからコミュニケーション自体が危うくなるように感じさせるもの、話せば話すほど価値観の転回を迫られているように感じてしまうもの・・・・・この感覚が性愛の領域に接近した時も、かわいい、と表現するしかなかったりもします、所有や保護にもつながるでしょうか。
そう言えば、余談ですが恋愛対象に「かわいいね」と言葉を発する時、そこに見ているのは言語(理性的な言語)を排除した中での、身体性である事が多いですね。
共感の不可能性が性愛に接近する時、理性的な言語が排除され身体性が前衛化し「かわいい」というメッセージが発せられる、みたいな。
その時、そのかわいいものを所有したいという衝動は、どのような過程をたどって達成されるのか・・・・・・・というのは、まあ、そうですね、人それぞれの方法で、という事にしておこうと思います。
そうだ、そう言えば、話は違いますけど、自分をキチンと評価してほしい、という想いのある方が、この「かわいい」を連続して浴びせかけられると、ちょっと冷めてしまうというか、自分の身体に対する相手の欲望も感じて、それは嫌悪感にもつながるでしょうか・・・・・そしてそれは、思うに、尊敬に値する態度の一つなんじゃないのかな、と。

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